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はじめに

    1. はじめにお読みください
    2. 作動環境と前提
    3. 演技について /サーバ構築のすすめ 闇 黒光

はじめにお読みください

Odic server libraryは、Odicサーバのための案内ページです。可能な限り一般化も目指しました。
大阪演劇情報センターでは、既存のサービスにとどまることなく、さらに多くのサービスを提供していく予定です。サイト内の各ページでは、現在のサービスを案内しています。説明が不十分な点もあるかと思いますが、提供するサービスの内容を、よりご理解いただければと思い用意しました。お読みいただき、ご意見やご注文などを頂くことで、利用サービス内容の可能性が、さらに広がるのではと考えます。
サイト内に記載する記事は、筆者がoffice-z.co.jpとodic.ne.jpや某社らのPC-UNIX上のオールインワン型サーバ構築課程で、悩んだり模索したり、ほっぽったりしながら必要に迫られてしたあれこれです。回線はOCNエコノミーやADSLの疑似専用線と分かれていますが、設定内容はほぼ同等でした。グローバルIPアドレスを数個使用してするネットワーク構成です。これはきわめて初歩的ではありますが、サーバ構築やネットワークの、原点でもあると考えます。
説明のための全体図ですが、ゲートウェイであるルータのグローバルIPアドレスはさておき、メインサーバ、データベースサーバ、セカンダリネームサーバにそれぞれグローバルIPアドレスが割り振られていることにします。メインサーバにはNIC(ネトワーク インターフェイスカード)が二枚ささっています。eth0とeth1としeth1のほうがローカルネットワークとなり、MacやWindows、Linuxがぶら下がっていることにします。
稼働サービスはメインサーバでWebサーバ、DNSサーバ、メールサーバ、FTPサーバ、タイムサーバ、プリントサーバの各サーバとします。データベースサーバではWebサーバとRDBMS(リレーショナル データベース管理システム)のサーバが稼働し、ネームサーバはキャシュサーバでの稼働です。セカンダリネームサーバはネームサーバのみとなります。
これらのネットワーク内へはSSHでのリモートアクセスが可能とします。telnetは動いていません。Webのアドレスはメインサーバがwww、データベースサーバがwww2のホストネームとします。
以上の前提条件でこのサイトの文章を綴り、設定を再検証したいと思います。おお括りするなら以下の箇条書きのようなものになるでしょう。少々おことわりしますが、このODIC.NE.JPは大阪演劇情報センターの公式サイトです。いわば演劇のサイトです。そこでのこのようなサーバ云々は、ということになるでしょうか?とりあえず、演劇営為としてサーバを捉え、情報を表現のメルクマールとして位置づけたいと願う、ということで今は措いておくことにします。
1.server上の各種設定 2.プログラム 3.リレーショナルデーターベースシステム 4.セキュリティー
これらはやはり、わたし自身のための整理から出発しました。/etc下の設定書類には、一度設定すればほぼ完了というものもあります。また、クライアントID追加とともに繰り返される設定もあります。何れにしろ、もう一つのserverとなると、それはいつも忘れた頃にやってくる。最初から調べ直すのも大変なのでレジメというわけです。
なお、文中の横文字はできるだけ正確を期すようにしたつもりです。また用語は、基本的には「リナックス」とせず「Linux」でいきます。はじめての登場文字、用語はLinux(リナックス)とし、以降は括弧を外します。
断っておくと、横文字に対して拘りや、癒されぬ思いがあるわけではありません。可能なら避けて通りたいのが偽らざる心境です。であるが、FTPとftpが違うといわれると、仕方ないかということになります。まあ五十からする英語の手習いにつき合うと思って、諦めていただきたい。
ともあれ、たとえばGNOMEを(グノーム)とするが、このグノームは当て字だという前提で、信用しないでいただきたい。各自パソコン辞典に類するものに、あたられんことをお勧めしておきたい。わたしの経験からいくと、突然天空から GNOMEが降ってきてはたまったものではありませんでした。何日かしてグノームに行き当たるのですが、それまでの文中に現れるGNOMEに対する違和感は忘れがたいものでした。具六、ぐー、具ノーといって通りすぎました。このように整理しています。いま間違っていることが問題ではない、やがて正解は向こうからやってくるのであるから。

 

稼働・前提条件

  1. ドメイン名 tako.co.jp
  2. プライマリネームサーバ ns.tako.co.jp
  3. セカンダリネームサーバ ns2.tako.co.jp
  4. グローバルIPアドレス aaa.bbb.ccc.70/29 (aaa.bbb.ccc.70/255.255.255.248)

aaa.bbb.ccc.70  ネトワークアドレス
aaa.bbb.ccc.71  ゲートウエイ(ルーターアドレス)
aaa.bbb.ccc.72  メインサーバ(eth0がWAN)・ns.tako.co.jp
aaa.bbb.ccc.73  セカンダリネームサーバ・ns2.tako.co.jp
aaa.bbb.ccc.74  www2.tako.co.jp
aaa.bbb.ccc.75  (空き・未使用)
aaa.bbb.ccc.76  (空き・未使用)
aaa.bbb.ccc.77  ブロードキャスト

ローカルIPアドレス 192.168.0.0/24 これらローカルIPは、NICの二枚差ししでaaa.bbb.ccc.72(メインサーバ)のeth1(LAN)にぶら下がっています。

192.168.0.1  eth1、ゲートウェイ、localhost
192.168.0.2  Mac pb2400
192.168.0.3  Windous98
192.168.0.4  Red Hat7.2

バーチャルホスト

ネームベースバーチャルドメイン ------------ red.com
IPベースバーチャルドメイン   ------------ bule.com

ドメイン tako.co.jp の環境説明です。グローバルIPアドレスは8個です。
最初のaaa.bbb.ccc.70と最後のaaa.bbb.ccc.77のグローバルIPアドレスは、ネットワークシステム上使用できません。また、aaa.bbb.ccc.71はルータに割り振っているのでこれも使えません。したがって取得した8個のうち5個のグローバルIPアドレスを使用してサーバ環境を構築することになります。
aaa.bbb.ccc.72がns.tako.co.jp(プライマリDNS)となっていますが、WWW、MAIL、FTPの各サーバも同機で稼働していることにします。いわゆるオールインワン型のサーバです。さらにaaa.bbb.ccc.72にはバーチャルのドットcomドメインを二つ預かっていることにします。ネームベースのバーチャルドメインがred.com、IPベースのバーチャルドメインがbule.comです。

当サイトのサーバ関係、あるいはネットワーク関係の文章は、上記ドメインとグローバルIPアドレスの設定を前提に記述していくことにします。(文責・k)

演技について (サーバ構築のすすめ)


何々の”すすめ”や”入門”などに出会うと、どうしたものかとフト立ち止まってしまうのだが、さてかくいうわたしはすでに、ここで立ち止まっている。

立ち稽古での話しであが、とある演出の、いうに事欠いた「とにかく騙されたと想ってやってくれ」などという暴言で、その場が最悪の事態に落ちいるのは良くあることで、それは騙ることを生業とする俳優に向かって、こだわりや主義主張を捨て、行為してくれというのだから、絵に描いたように窮まって最悪である。前後の位置づけや脈絡を捨てて、行為を要求するとは大胆不敵で、押しつけられる側にしてみれば、彼や彼女らのこれまでの人生経験を総動員して、マニアルらしきものを流してみるということになる。前後の脈絡や時間的な飛躍を意図するわけではないので、器用な俳優は、ここでいう器用は、器用な俳優という意味にとどまらず、何かにつけ一般化の手順を会得しているということになり、人付き合いが上手ということにもなるが、それなりに場を絵にしてしまう。これに比べて、いわゆる不器用な俳優は、すでにもういたたまれない。一般化の手だてが瞬時に用意されなかったのだ。
一般化の手だてを探るとは、莫大な時間が浪費されるかもしれない稽古の積み重ねによって紡がれる、彼や彼女らの何かの一つであるから、自身に対する納得とともに、他者に対する説得力を得ようとする、何らかの関係を求めるための試行錯誤のことであるから、それを瞬時に組織してくれというのが、あらかじめ不可能なのである。
いたたまれないが、「とにかく騙されたと想ってやってくれ」などと要求する仮説行為が、一般化されてあるはずがない。一般化されていないから、仮説がたくらまれるわけで、その仮説を、論理と価値の有り様として行為の上に預けることができるなら、取りあえずやってみてほしいなどという試行錯誤はない。ではなぜ、こちらの仮説を、相手にはひらめきにも似た「すすめ」として、丸飲みを要求するのか?

わたしはこの「すすめ」の枠を「コマーシャル」やあるいは「メディア」まで広げてしまい「情報論」として展開すべきだという誘惑を、なだめすかしながら綴っている。そうである限りはみ出てしまう部位もあるだろうが、まずこの「すすめ」の位置だ。つまり「すすめ」の内容が一般化してあれば、「すすめ」などというお節介はない、ということだけはできよう。また、すでにあなたが「すすめ」の内容にに興味があるのであれば、それはもう「すすめ」の術中にあるのであり、必要なのは「すすめ」ではなく「マニアル」ということになる。お節介……
だがさて、フト立ち止まる本当はもう少し違うこだわりとしてある。
語気あらげていえば、この「すすめ」には教条性がつきまっとている感を拭いきれない。ついに「いいからやってみたら」ということから離脱できない。そもそもいいとは誰が何の基準で判断するのか?それは言わずもがな「すすめ」る側である。この基準と判断を一般性として論理化し、価値として提出できればその「すすめ」は、相互の関係で納得して成就する。が、そんなことはあり得ない。万有引力の法則を説いているわけではないので、やはりあり得ないのである。
あり得ないことの論証を抜きにして文意をすすめることは、客観性や誠意がないとは思わない。わたしたちの社会生活のことだということで十分だろう。蛇足だが、だから表現があるのであり、目的意識的な人間営為があるのでなかったのか?
このような中で「すすめ」の道筋を図式化してみれば、多かれ少なかれ、提出した基準と判断を受け入れてもらう側の器に巧妙にあわせるか、あるいは、これまでと違ったかたちに、提出した基準と判断にあうように、何かを強引に変容させなければならない、ということになる。説得するのではない。条件をずらすのである。そうすることで、提出した基準と判断は、器にとっての価値となる。 するとあなたは、器に合わせて自身を相対化することができる。巧みに政治である。このことを一般化といい、コンセンサスが成立することだといえば、言い過ぎだろうか?
確かに社会性としては言い過ぎだろうが、表現には自身に対しても、また対他者にでも必ずこのような隠れた政治性がある。これを仮説と呼び、あるいは仮想線を引く、あるいはまた単純に計算する、といえば言葉はやわらぐだろうか。さらに、自身の保守性とのせめぎ合い、アイデンティティへの疑義の排除とでもいえば、視点を変えたいい方になるだろうか。ともあれうまくいけば、こうしたプロセスの後「すすめ」は成就する。
平たくいえば「すすめ」の前にまず立ちはだかるのは、興味の範疇である。しかし「すすめ」の出自は一般化にある。あらかじめ関係は絶たれている。「すすめ」が「すすめ」であろうとする限り「すすめ」の作業は、興味という個別性を一般化するだけである。
やはり、この二段階を踏む策術がキナ臭いのである。だがこんなことを目的意識的にやっている訳ではないので、このキナ臭さを包むのが、もう一つのさらなる政治性である。
演技とは、とり分け演出とは一つとして、この策術のことをいう。ほとんど演出家とは腹黒く、いやなやつだといっているようなものだが、演出作業に携わる端くれとして、演技とはこれらの政治性から最も遠いとこにあるのだということを綴り、演出性の少しばかりの正当化を試みておきたい。

さて役者とは、空を飛ぶ人種のことをいう。空を飛ぶのは、おだてに乗ったブタだけではない。おだてに乗らない役者も人前で、人力で空を飛ぶのだ。だから稽古場の立ち稽古で、空を飛んでいない俳優に向かって「とにかく騙されたと想って飛んでくれ」というわけである。もうほとんど与太話であると想われるかもしれないが、役者たらんとすることは、いかに自身を知るかに関わることで、あるいは三十数年の生活を、それはあなたの人生をひょいと横に置くことに等しい。つまり相対化すること、自身に目を向けること、問い直すことに等しい。そのような過酷な、自己を措定してする対象化の作業ができる人種が、たかだか空を飛ぶことが、できないわけがないのである。
このような語り口は、演技論はほとんどロジックでないといえそうだが、それは違う。例えば唐突ではあるが、次のようなレベルで概念化し、査証したとしたとしても、あなたは論難だとかたずけることはできるが、演技とはそれを行為することなのだ、と静かにいうだけなのだ。だから例えば大げさと思われるかもしれないが、人類史などというものがあるとして、かりにわたしがそれを想定するとして、それは一つとして、人類史とは人類愛なるものを証明せんとする時間のことだ、ということができるとしよう。そうして、そのため人類諸氏は、これまで人権を価値としてちらつかせ続けているが、一方で殺戮を手放したことはない。人類愛なるものが何故至上命題なのかなどと問う気は更々ないが、ただ前記した役者たらんとする「ひょいと横に置くこと」を数千年かけてもなしえない人類諸氏、ということだろう。人類諸氏にしてみれば、きわめて過酷な作業であることになる。いってしまえば、その歴史は滅茶苦茶であるのだが、それでも人類は、百年前に空を飛んでしまったのであった。
もうおわかりのように「ひょいと横に置くこと」以外に役者たることができない以上、役者たらんとする俳優が、軽やかに人類諸氏を差し置いて空を飛べるのは、論理や論証を越えて、自明の理であるほかないのである。
ほとんど説得力がないだろうか。それでは次のようにいうこともできる。
鳥は空を飛ぶのではなく、風に乗るのである。飛行機が空を飛ばなかったら、それは事件である。佐々木小次郎が修練の後、ツバメ返しを完成させたとき、彼はツバメにもまして空を飛び風を斬ったのである。舞台の上で俳優がロープにぶら下がり振り子運動をするとき、ロープを消せば、俳優は空を飛んだのである。金のかかったフライングマシンがあるから、毎夏恒例のピターパンは、劇場を訪れる子供たちの目の前で空を飛ぶのではない。
いくらでも事例を上げられるだろう。
だがお断りしておきたい。それは、観客席のあなたがそれを判断し、判断しないということである、などということではない。そんなしたり顔をすれば、ことが済むなどということではないのである。
かくいうわたしは人類にあって末席のそのまた末席を汚す者であるので、さらに与太話と思われないために、こうい「すすめ」ばどうだろうか。「とにかく騙されたと想って笑ってくれ」あるいは「とにかく騙されたと想って泣いてくれ」と。


さてここでの問題は、「いいからやってみたら」ということで、取りあえずいいから「とにかく騙されたと想って笑ってくれ」と「すすめ」ても、それはおかしくもないのに笑えない、ということであるが、真意はこうだ。ささやかなわたしの身体観を披瀝すれば、笑うとは感情と呼吸と筋肉運動から成り立っていると大別でき、帰納できる。これらは三者三様に絡んでいるのだろうが、呼吸と筋肉運動を訓練することによって、笑いは可能か。そのときおかしいという感情はいかに変容されてあるのか。またそのようにしてあり得る「笑い」は、関係を元のままに受け入れるのか。説明のためとってつけたような仮説になったが、ようは、人はおかしいから笑うのであれば、笑うからおかしいという逆説は成り立つのか?
わたしたちは本番という舞台に向かって稽古を重ねているのであり、笑いのプロセスの逆説が成り立つのか成り立たないのかを、実証することを目的としていない。ここでの例にならえば、取りあえず笑う。おかしくないけど笑うのではなく、まず笑うのである。このことによって、自身と関係はどのように変容されるのか。場が違う標榜を見せるなら、それはなぜか?その新たなる関係は、可能性に向かってどのように紡ぐことができるのか。
ここでの前提は、すべてが必然的、論理的かつ合理的プロセスや、結果としてあるのではない、という立場に立つと決意するということだろう。そのまなざしで身体行為と演劇営為を目指すというこである。だがしかし決意し、たくらめばたくらむほど、ここでは綴り切れぬが、わたしたちがいかに生活の中で積み重ねてきた興味や価値観や、論理から自由になることが難しいかを思い知らされる。この意味でいえば、まずはこれらのものとの距離をどう測定できるかが稽古ということもできる。例えば、わたしたちは頭が痛いと、手の平を額に持っていき「頭が痛い、熱がある」というのである。この動作はわたしたちが文化として受け継いできた、学習の結果だろうか。それとも患部に手をかざすのは、自己治癒という本能の枠内にある動作なのだろうか。正確なことはいえないが、ただ万が一間違っても、手の甲を腹部に当て「頭が痛い、熱がある」ということはない。これが「すすめ」にあがなってある、身体の権力性である。
結論めいていえば、笑うからおかしいということを生きることが演技なのである。文脈からいいけば「すすめ」を無化する、ということである。

「サーバ構築のすすめ」と銘打ちながら、ここまでお読みいただいたあなたは、露ほども「すすめ」ていないので訝るかと思われるが、例えば『ハリーポッタと賢者の石』よかったから映画観にいったら、とすすめられれば気は楽なのだが、ここの「サーバ構築のすすめ」は、そうはいかないだろう。たぶん、わたしも含めわたしたちは生活の中で、映画館で過ごす楽しいひとときを思い描くことはできているだろうが「サーバ構築のすすめ」の場合、たぶんわたしたちの日常生活の中では共有する何ものもないと思われる。二三年前の通信料金のコスト高ではどうしようもなかったが、最近は安くなったので個人でも云々……でもない。
こうなれば「サーバ構築のすすめ」など一行で片づける事ができよう。
常時接続回線を契約する、グローバルIPアドレスとドメインを取得する、OSにUNIXなりLinuxをインストールする。
これですべてである。サービスが開始できるかできないかはあなたの努力次第である。経験からいっても、ネットワークやオープンソースの開発環境に興味があったのでサーバ構築が可能となったのではない。単純である。繋がらないものを繋がるようにする、この積み重ね以外になにもない。これがわたしのいう「サーバ構築のすすめ」の演技論に他ならない。(つづく 2002.05.16)

すでにもう、ネタはすべて割れたとおもう。わたしにとっては「サーバ構築のすすめ」は「とにかく騙されたと想ってやってくれ」に全く十全に重なる。だから「サーバ構築」の部分は変数である。何にでも変容することになる。また、「すすめ」を”情報”という言葉に置き換えてもらえば、この拙文はわたしがする「物語論」としてある。
わたしにとって「サーバ構築のすすめ」を、また「●●●のすすめ」を一般論として綴る事の意味はない。まずは演技論としてのみ位置づければ事足りる。しかし、ここまでお読みいただき、「とにかく騙されたと想ってやってくれ」の構造が、演技論として明快に解き明かされているのかどうかに関しては、少々自信がない。
そこで以下のように補完することで、この拙文を閉じることにしよう。

冒頭にもどることになるが、どうやら、すべての俳優が頭をうち揃えて役者たらんとするようでもないのである。器用、不器用をもう一度持ち出すなら、不器用な俳優がよりよく役者たらんとするようなのである。たとえば「とにかく騙されたと想ってやってくれ」などという要請は、いわずもがな「こんがらがって」いる。そこで要請を受け入れるとは「この非論理性」を受け入れるということではなく、「この非論理性」を一般性に変容し、常識的な論理性に置換するということを、意味している。さて、これをしないというのが、個的な表現衝動にこだわるということであった。残念ながら、「この非論理性」を一般性に変容し、常識的な論理性に置換してしまっては、表現上における自殺行為にほかならない。個的な表現衝動を切り捨てては、なにも始まらないのである。
すべてを納得する必要はない。要請の丸飲みが必要である。言葉を換えれば、要請の無化である。分からないことは分からないとして始めるしかないのである。何故わたしはわたしの個的な表現衝動にこだわるのか。そのようなわたしとは何か。わたしはなぜそのように現象するのか?
ほとんど哲学である。少々、ネタ振りをしすぎて、ここにたどり着いたが、例えばフッサールの現象学である、といいたいが、フッサールの現象学の書物である。あるいはフッサールの現象学についての書物である。ここではほとんどおかしな事が起こっている。


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