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前書きにかえて


    1. RDBMSと演劇
    2. 情報と演技について
    3. 演技について
    4. 演技としての『寝ながら学べる「構造主義」』

RDBMSと演劇

大阪演劇情報センターです。是非お読み下さい。
ここでは大阪演劇情報センターの紹介やら、現状やら、お知らせやらをまとめてみます。
データベースの話から入ります。まずこのように設問しておきたおいと思います。「リレーショナル データベース マネージメント システムを演劇的に解決するには」と。

さて、オフコンやワークステションはもう一昔まえの話でしょうか?もちろん大きな会社などでは、今も稼働していると思いますが、かつての高機能計算機は、いまではあなたやわたしのまえに、パソコンと呼ばれてあります。このとききっと、安定したハードウェアの性能と、高価なソフトウェアでしか実現できなかった幾多のシステムは、個人にとって論外の夢ではない、ように思われますが、いかがでしょうか。なかでもここで言及しようとしている、データベースシステムは顕著な例ではないでしょうか。システムの導入に数百万円がかかり、人件費を入れれば一千万円をくだらなかった時代から、PC-UNIXを導入すれば一台のPC互換機と無料(オープンソースのフリーウェア)のソフトウェアで実現できるはずです。人件費にかわり、サポート会社のメンテナンスやサポート経費も百万前後からのメニューが登場してくるようになりました。
劇団といったらいいのでしょうか?あるいは演劇の力場といったらいいのでしょうか?演劇営為を自らの立脚点と見据える人たちの世界ではどうでしょうか。楽屋話めきますが、まずはスタッフのギャラを何とかということになるのでしょうか?
ここで「演劇と情報管理」などと見得を切って語るつもりは毛頭ありませんが、経験からしてそうとうお寒いのが現状だ、といってもいいのではないかと思われます。
ほとんど閑話休題にしたい心情を隠し切れません。それはこうです。
そもそも情報は演技論として語りうるのか?
「情報ねェ、データの蓄積でしょ。演技論で乗り切ればいいんじゃないの」
悪態をつく暇もないので、このようにいっておくことで、いかがでしょうか?

大阪演劇情報センターはまもなく、odic.ne.jpを表現論によって開きたいと思います。

ドメインを開くという意味を綴っておきます。
root権限を解放するわけではありません。アクセスを可能にするためセキュリティーを無視するわけでもありません。より重視します。眼目はODICのデータベースシステムを希望があれば、演劇に携わるあなたであれば使っていただく、ということです。データベースシステムのソフトウェアはPostgeSQLとMySQLです。
まもなくという意味に触れます。このようにいうのが正確かどうか、いまわたしには判断つきませんが、三種の神器はPHP、PostgreSQL(MySQL)、Apacheです。で、まもなくということですが、みなさんに使っていただくWebアプリケーションはただいま制作中、という意味になります。もちろんこのスクリプトやプログラムは個別になった具体性以外にないのですが、サンプルめいたリレーショナルデータベースシステムは、大阪演劇情報センターの必要性として、制作過程ということになります。
Apacheの設定はサーバ側の領分ですので、PHP、PostgreSQLを利用できる方は連絡下さい。もちろん一環性としてWebスペースやIDアカウントを設定します。Mailアドレスも同等です。お持ちのドメインがあり、希望であれば預かり設定します。WebスペースやMailアドレスだけでもかまいません。
これらはすべて無料です。スポンサーはオフィスゼット/ONSです。なお、カンパを拒否するものではありません。またスポンサーも募集しています。
さて、なぜそうなのかということになるでしょうか。このODICのサイトを熟読していただくのが一番なのですが、簡単に綴れば、この営為自体を大阪演劇情報センターは演劇営為と考えているからに他なりません。その論理はということになると演技論になりますので別稿を起こさねばなりません。同時に、この演技論に至る経緯もまた別稿に譲りたいと思います。
とりあえず、この場ではODICとは演劇archiveであり、演劇museumであり、一つの情報でありたいと考えています。それは大阪演劇情報センターの演劇営為であり、演劇状況があるとすれば、それはその状況にたいする立場ということになります。
きっと語らねばならぬ多くが欠落しているものと思われます。各所で別稿を用意することを誓い、ODICの展開が語らねばならぬ多くになればと思います。
なお上記中ODICと大阪演劇情報センターを使い分けてきました。ODICはWeb上の、ネトワーク上の、システム上の実体です。大阪演劇情報センターは大阪府八尾市佐堂町に事務所を置く社会的実体です。
最後になりますが、上記趣旨に賛助頂ける方がありましたら、ぜひご尽力をお願いします。

2001.06.20
大阪演劇情報センター
大阪府八尾市佐堂町2−2−17
文責・河野明

情報と演技について

  〜未知座小劇場と大阪演劇情報センターからの報告〜

闇 黒光

与太話の様相を免れ得ないが、情報と演技を演劇的に解決するには、次のように綴り始めるしかないので、お付き合いを願いたい。
さて、情報とはデータの自己実現形態であり、この意味で情報は、われわれの前に表現としてあるといっていい。仮りにわたしたちが様々な情報に取り囲まれているのでれば、多くの時事の中で表現に立ち会っていることになる。決意された具体の前では、息苦しくなるのがわたしたち人間というものであろうが、また同時に、ひとつの決意には、もう一つの決意を対置しようなどとする、ならず者を装うことを止めぬものであるから、息苦しくもあり、抜き差しならなくもなる。
安寧な日常でもあるまいが、実は、情報という表現の前で、存在を問う自問に破れ、自死に至らんとする美しい光景が氾濫するわけでもないのは、情報がする表現の質が問われているからでも、わたしたちのなんとも頼りのない想像力のなせる業でもない。それはまず、情報が情報として自立することがないからだ。情報は常に、何々についての情報という位置を譲ったことはない。情報は常に修飾語として表現に荷担する。
ここまでくると、おかしなもので情報はそれ自体として表現ではない、ということになる。しかしデータは情報として自己を表現する。情報は表現を装う。
わたしたちはこうして装った表現に対峙する暇などないので、情報を取捨選択することになる。やがて情報を求めるための情報が求められる。ついには情報を求めるための情報こそ情況論であるなどということになると、そもそもそこにあった情報など、ついにはあなたの背中に張り付いている、などとなりかねない。いや、情報の商品化の速度に見合って、あなた自身が情報になる。これをわたしは情報の超デリダ化論と呼ぶのだが、まあ、一つの円環を見る。
この総体が情報の演技論である。
これは演技論たり得るか?と、問うなら、仮に、物語とは情報のことである、という演技論を対置する勇気を、少なくとも演劇人は持たねばならない、という語り口は今でもまだ通用するだろうそもそも演技とは演じる技のことではなく、方法それ自体であるから、論たりうるかということには肯首するが、情報の演技論は軽くそれを打っちゃる。論証するまでもなく表現は、情報に絡みとられて瀕死の呈であることは間違いない。
ここから出発するしかないが、これを日常と位置づけるか、表現が病んでいると位置づけるかで、大いに演技の思想性を分つことになる。いずれにしろ、この状況を凌駕しうる表現の幅が求められて久しい。そしてそれはわたしたちの演劇的な、思想的な現代的な課題である。
知ったふうな口を利くと、表現とは今を生きることではない。また明日を生きることでもない。それは明日という可能性を私権化する抜き差しならぬ試みである。このとき状況が表現であると嘯のは、表現として無効であるばかりでなく、情況論として破綻している。
ついに物語が情報にたちかえることはないであろう。それほどは歴史の成長過程を信じてもいいであろう。何よりもわたしたちはそのように選択してきたのだし、多くの叡智は注ぎ込まれてきたはずである。
さて、ここまでわたしは「情報」を「小屋」と置き換えることで、この拙文を綴ってきた気でいる。そこでマニフェストすれば、未知座小劇場と大阪演劇情報センターは、情報を一般性に趨さず、最大限の私権化を図り、演劇そのものをデータ化する、が表現となっている。そうして-
すべてを、演技論で突破せよッ!

ウイングフィールド『月刊WING HOT PRESS 2001/12』寄稿文(2001.10.16)  

ご意見・ご感想をお待ちしています。こちらへどうぞ
  


演技について


      ここに記載する文は、ある劇団の公演パンフレット掲載原稿として執筆されました。筆者の希望で、 現時点で公演が行われていませんので、劇団名と公演名の公表は控えさせていただきます。後日、明記できるものと思われます。 (2002.04.05 大阪演劇情報センター)

      ここに記載する文は、水族館劇場(東京)公演『ワールズエンドワルツ』(5月18日〜6月3日・駒込大観音光源寺) のための水族館劇場水の通信・第38号『FISH BONE』に記載された。(2002.07.26 大阪演劇情報センター)

のっけからのお断りで申し訳ないが、文意の触手はやはり興味のあることしか動かないのは、いたしかたないといえばそれまでで、だがそれはいわば、論旨を一般化するにはわたしの力量が微妙ある、ということかもしれない。お付き合い願えれば幸いである。ともあれタイトルは「演技について」である。
DNS----ドメインネームサーバシステムである。
断りながらも絶望的に飛躍するが、DNS。情報の話である。切り出したからには綴るが、一般化したまま放り出しつづける気もないので情報論のことになる。情報と演技についてということにしよう。
そこでDNSだ。どのレベルで少々説明したらいいのか戸惑うが、熟知されている方があれば、読み飛ばしてもらいたい。大枠でいえばネットワークシステムのことである。話をわかりやすくするため、インターネット上でのこととしよう。詳細は省くが、インターネット上ではグローバルIPアドレスをもとに情報交換がおこなわれる。210.111.54.111という32ビットで構成され、8ビット区切りの2進数を、10進数表記した乱数にも似た数字である。これがIPアドレスだ。
だが、わたしたちがインターネット上で幾多のホームページを閲覧するとき、目的のURLをブラウザの任意のスペースにwww.yahoo.co.jpなどと打ち込む。これで目的は達成されるのだが、さてネットワークシステム上ではIPアドレスをもとに、ヘッダ情報に従って情報交換が行われる、であった。ここで登場するのがDNSである。このシステムはwww.yahoo.co.jpなどのドメイン名をIPアドレスに変換する。したがってこのシステムのことを別名、名前解決システムともいう。人が32ビットで構成された2進数の数字を覚えにくいからだ。
わたしがここで注目するのは、と一気にいきたいのだが、その前にIPアドレス。これには管理する団体(IANA Internet Assigned Numbers Authority)があり、その仕様はIPv4(Internet Protocolバージョン4)という。この仕様によるとIPアドレスを約43億個用意できる。現状これが枯渇しており、新たな仕様で128ビットのIPv6では、約43億の5乗個が可能となる。さて、わたしの日常感覚からすれば、これら何億個という数字は、無限であるに等しい。通信方法(プロトコル)は別にして、ここでいうDNSはこれら何億個という無名のなかから、ひとつの有名を特定するということになる。世界的な検索データベースシステムの中では可能であろう、とえばそれまでになる。事実そういうことなのだろう。
個別有名性の検索にデーターベースシステムが用いられていたとしても、つまりわたしたちの日常感覚からすれば無限といっていい数のコンピュータやパソコンの中から、ある一つを特定できることにやはり驚きを隠しえない。さらにそれをこれまた、わたしたちの日常感覚からすれば一瞬に実現することである。日常感覚に寄り添ってリアリティあるいいかたをすれば、43億個の中から、ある一つを恣意的にではなく選択する。
たぶんわたしがここで、驚嘆に値すると思うのは、この名前解決システムのなかで、無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化されてしまうからに他ならない。いまのわたしはそれがコンピュータであり、ネットワークだというしかないのであるが。
それでもなおかつ、以下のように綴ることによって、情報と演技を確定してみたい欲求に駆られるのである。
無限と一瞬は排他対極概念であるということに、もしあなたに同意していただけるなら、もちろん一瞬の中にこそ無限は存在する、というレトリックをも含めてもいい、それでも同意していただけるなら、無限と一瞬の排他対極概念は、今、無化され続けているということになる。これを、情報は行為され続けている、と言い切ることにしよう。
わたしはこれが情報の現在と考える。情報は垂れ流される、ではない。情報はヴァーチャルであることによって実態を獲得する、でもない。またもちろん、情報を求めるための情報が、今情報である、でもない。
誤解を恐れず綴るが<類・DNS>は情報の演技論なのだ。

ここであえて演劇用語を用いて綴る必要はないのだが、次のように強引に歪曲することをお許し願いたい。演劇表現の概念を借用すれば「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」なら、新たなる価値と概念が生産されたことになる。ここでは演技が行使されたといえそうだ。演技とはそのような行為である。
演技を行使したもののことを役者という。演技が行使されたとき、わたしたちは観客席で観客になることができる。その瞬間、わたしたちは観客になったのである。この意味で、演技とは、新たなる価値と概念を生産する行為をいう、といっていい。平たくいえば、明日という可能性が事実されたのである。そのときわたしたちは観客席で新たなる価値と概念に立会い、役者としてたち現れた身体の個別性に、観るということを行為して観客にな るのである。
余談だが、芝居を観にいくことはできるが、観客になることは難しい、という論旨になっている。すると、純粋培養しだいでは観るということのプロがいる、ということになる。さらに、演技論がありえるように、観技論があるのだろうか。
そんなことはないのでそれは、より多く舞台の問題ではなく、わたしの側の問題であるだろう。だが、わたしは自嘲をこめ綴るが、ただここにいるだけである。そこに価値と真理があると盲信できるからそうするのではない。それ以外のありようはやはりないのだ。少しばかり大げさにいえば、ここにいることについに向き合うしかないのだ。逆証するなら、わたしはこれまで生きることのプロに出会ったことがない、ということになる。それは技術ではないということだ。ここにいることは技術ではない。つまり観客になることは技術ではないから、たいそう骨が折れる。

このようにして演技は技術ではないと査証できる。技術でないものに技術が立ち向かっても、関係はついに成就しないからだ。もちろん関係とは情報のことである。こうして、そしてこのようななかで、そしてなおかつ演技が論として求められる。それは思考され仮設された行為であるからだ。行為が論に歩み寄るとき、自ずから体系化を目指すことになるが、だからここで自問が頭をもたげうことになる。体系化を目論むとは、演技の方法化を意味する。だがさて、方法論とはより良く技術のことを意味するのではないのか、と。明かに否である。換言しよう。演技が、明日という可能性が事実されたことを意味するのであれば、今の相対化の中にあるなどという柔軟性の中にはない。いまが速やかに、否定されるだけである。明日という身体の可能性を行為せざるをえない役者たらんとする身体は、ついに論理と論証の果てに、ついに非論理と向き合って抱擁を交わすのだ。なんという非合理なことだろう。演技はあらかじめ、このようにして論理と非論理と否論理やらのなかで、ここにあることの身体の動機を研ぐのだ。なぜそうなのだと問えば、それはひとえに、ここではなく舞台にあるということを選択したからであった。選択である。それだけなのだ。だがこの一意の選択はすべての論理を凌駕するだろう。大げさでなくいわざるをえないが、かつてわたしたちの祖先のなの一人のミコが、祭壇の前にかしずくその踵を返し、祭壇を背にした瞬間からのそこから、今というこの瞬間までの時間の幅が、一意の選択を支えているからだ。

断らざるを得ない語り口だが、これはマニフェストではない。
無限と一瞬の排他対極概念が、無化されてしまう価値のことに他ならない。それはきわめて演劇営為であり演技は行使された、と与太をとばしたくなる情報交換の物語のことである。そしてこの情報の位置を凌駕する演技論を持ち得ていないのが,演劇表現の現状だということについてである。それは能役者が、百年単位の幅を、歩一歩のすり足の中に収めることができるかどうか知らないが、そうであるとして、その演技を凌駕してある演劇営為はどのように佇んでいるか、検証しようとしているに過ぎない。
さて、だからこのようにいうことができる。これは物語の話である、と。

演技を物語の中に閉じ込めよう。もちろん仮設である。この仮説は次のようにして論証される。情報とはデータのことであり、データとは関係の現象形態である。関係とは物語のことである。ついに物語の最高形態とは天皇制のことである。つまり物語とは情報のことである。
論証という言葉を持ち出したので、これはマニフェストである、とすばやくいっておくことにする。さらに老婆心ながら付け加えておきたいのだが、物語とは集団の別名であり、舞台の別名である。煙に巻くきはさらさらないが、登場人物もでそろったので、情報と演技を演劇的に解決するには、ということになろうか?
過日このあたりのことを次のように書いたことがある。
「さて、情報とはデータの自己実現形態であり、この意味で情報は、われわれの前に表現としてあるといっていい。仮りにわたしたちが様々な情報に取り囲まれているのであれば、多くの時事の中で表現に立ち会っていることになる。決意された具体の前では、息苦しくなるのがわたしたち人間というものであろうが、また同時に、ひとつの決意には、もう一つの決意を対置しようなどとする、ならず者を装うことを止めぬものであるから、息苦しくもあり、抜き差しならなくもなる。
安寧な日常でもあるまいが、実は、情報という表現の前で、存在を問う自問に破れ、自死に至らんとする美しい光景が氾濫するわけでもないのは、情報がする表現の質が問われているからでも、わたしたちのなんとも頼りのない想像力のなせる業でもない。それはまず、情報が情報として自立することがないからだ。情報は常に、何々についての情報という位置を譲ったことはない。情報は常に修飾語として表現に加担する。
ここまでくると、おかしなもので情報はそれ自体として表現ではない、ということになる。しかしデータは情報として自己を表現する。情報は表現を装う。
わたしたちはこうして装った表現に対峙する暇などないので、情報を取捨選択することになる。やがて情報を求めるための情報が求められる。ついには情報を求めるための情報こそ情況論である、などということになると、そもそもそこにあった情報など、ついにはあなたの背中に張り付いている、などとなりかねない。いや、情報の商品化の速度に見合って、あなた自身が情報になる。これをわたしは情報の超デリダ化論と呼ぶのだが、まあ、一つの円環を見る。
この総体が情報の演技論である。
これは演技論たり得るか?と、問うなら、仮に、物語とは情報のことである、という演技論を対置する勇気を、少なくとも演劇人は持たねばならない、という語り口は今でもまだ通用するだろう。そもそも演技とは演じる技のことではなく、方法それ自体であるから、論たりうるかということには肯首するが、情報の演技論は軽くそれを打っちゃる。論証するまでもなく表現は、情報に絡みとられて瀕死の呈であることは間違いない。
ここから出発するしかないが、これを日常と位置づけるか、表現が病んでいると位置づけるかで、大いに演技の思想性を分つことになる。いずれにしろ、この状況を凌駕しうる表現の幅が求められて久しい。そしてそれはわたしたちの演劇的な、思想的な現代的な課題である。
知ったふうな口を利くと、表現とは今を生きることではない。また明日を生きることでもない。それは明日という可能性を私権化する抜き差しならぬ試みである。このとき状況が表現であると嘯くのは、表現として無効であるばかりでなく、情況論として破綻している。
ついに物語が情報にたちかえることはないであろう。それほどは歴史の成長過程を信じてもいいであろう。何よりもわたしたちはそのように選択してきたのだし、多くの叡智は注ぎ込まれてきたはずである。」
ここから歩一歩を進めようとするのがこの「演技について」であった。それは情報の現在を明確化することによって、可能であると踏んだのであった。
ここで、いまわたしは「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」ところに情報は佇んでいるとした。この情況論を起こすには別項を用意しなければならないが、ここでいう「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」ということは、一つに時間を喪失したということではなく、時間が無化したということなのだ。さらに、情報がヴァーチャルを装うことで、力場をも無化したのである。この意味は、このようにいうことでわたしたちの現状を、逆照射する。
場も時間もない物語などない。
換言するなら、わたしたちの物語はそうしてある。このときこの情報論を、まだ物語と呼ぶことはできるのだろうか。さらに独白すると、わたしはこの情報の位置を相対化する、演技という表現の幅を持ちえていない。たとえば、演技は舞台にある俳優たちの行為する関係性のなかで具現するが、それは練習という反復作業の結果、訪れるなら訪れるものなのだ。これは、これは、時間と付き合うということを意味している。作業は極めて古典的な物語の枠内にある。あえて具体的に極論すれば、作業のより多くの時間は、関係を行為しようとする仮説作業の中にあるのではなく、その行為することのリアリティ獲得に、より多くの時間が割かれることになるだろう。仮に一つのあるリアリティ獲得がなったとして、明日またそのリアリティが保障されるという根拠は、どこにもないのである。つまり、関係の中にリアリティを獲得しようとするとは「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」ことにあがなうことになる。ここまできてもまだいうが、わたしはそれでもた「だここにいるだけである。そこに価値と真理があると盲信できるからそうするのではない。それ以外のありようはない。少しばかり大げさにいえば、ここにいることについに向き合うしかないのだ」といわざるをえない。
これが情報という物語に向き合う演技の位置である。多言は要しないが無化には、自己無化を対置すればいいのである。問題はその論理化作業である。そして、ついにいわざるをえないが、これは論理矛盾である。逆接が逆巻いている。「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」とはすでにゲーデルの不完全性定理ににて回答不能である。であるが、さらにわたしは論理家でもないので、上演台本としてその文体をドラマツルギー化することになる。それは「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、一人のクレタ島人が言った」を、演劇営為として解決するだけなのだ。
わたしにはここまで、鉄扉面よろしく物語とは情報のことである、をテーゼのように抱えながら文意を進めてきた。そしてついにもう物語と情報が等記号で結ばれることはないと断言した。その右辺と左辺の乖離こそ、情報の現在であり、表現としての演劇情況なのだと声だかにしたのであった。情報の中で表現は溺死状態である、と思いを差し出すことにもなった。このとき、物語と情報が等記号で結ばれていたのはいつだ、と問うことにはまったく意味はないだろう。
構図はこうだ。問いかけるもの自身の問題としてまずある。わたしがそれを問うなら、河原者の時代である、あるいは1960年代後半から70年にかけて、などというかもしれない。これはわたしの昨日と今をいっているに過ぎない。つまり問うものの数ほどある、というのが構図である。情報の現代が、それらを照らしだすだけなのだ。
まとめに入る事にしよう。まとめることが可能であるならば、そのようにしよう。だがこの「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、一人のクレタ島人が言った」そのいったクレタ島人は、嘘つきなのか嘘つきでないのか、やはり回答不能なのである。
演技論のみがこの状況を行為しうる。なぜなら、繰り返しになるが「演技が、明日という可能性が事実されたことを意味するのであれば、今の相対化の中にあるなどという柔軟性の中にはない。いまが速やかに、否定されるだけである。明日という身体の可能性を行為せざるをえない役者たらんとする身体は、ついに論理と論証の果てに、ついに非論理と向き合って抱擁を交わす」からだ。可能性は演技論を糧に、役者たらんとする身体の側にある。演劇表現の可能性などというと、口はばったくなるが、ふんぎってそのように発言することをよしとしよう。
ここまできても、可能性はわたしの中にない。あるのは役者たらんとする身体、の側にである。一つの選択とは、やはりそれほどのことを意味するだろう。それを支えてあったのは極めて個的な表現衝動であった。
これが差し出すこの拙文の構図である。すべてを無化する情報の前で佇んでいるのは、極めて個的な表現衝動である。
最後にこの構図を一般化することでこの拙文を閉じたいと思う。いま情報は、無限と一瞬を手中にすることで、すべてを無化するのだから。
そこでは「9.11」はどうだったのだろうか。あえて綴るが、このように問う意味はどこにもない。特筆して「9.11」がそうだというのではない。「阪神大震災」しかり「サリン事件」しかりである。だがもちろん、これらの事件は「演劇」を変えるかと問うことはできるだろう。事実そのようにあった。ある弔意を伴って綴るしかないが、その問いは「不遜」である。また、わたしたちの現場はそうヤワではない、というしかない。これがすべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」とき、情報はそのようにたち現れていない、ことだけは確かである。
すでに情報は物語ではないのだ。情報は物語を装うことしかしない。ブラウン管のなかの画像や、デジタル化された信号はついに現場ではない。だから、こちら側で何かを読み取ろうとしたとき、あまりの情報量の多さに驚愕し、とどかななっかたであろう幾倍の情報に思いをはせ慄然とするだけである。でもなおかつ、それらの情報はこちら側に物語を要求する。正確には、わたしはわたしのアリバイ証明を生産する。ではあえて、対峙する世界の中で古典的な物語を存在証明として生産する意味はどこにあるのか。これも再び繰り返しになるが、意味と根拠はない。昨日までそうしてきたので、今そうするのだ。これを思想家ぶって情報の権力構造とたかをくくっても仕方がないだろう。
舞台の側からいえば、仮にそのような情報の権力構造があったとして、それを相対化しえぬ演技論の不在こそ、演劇表現にこだわるあなたの、そしてわたしの責任性として問われるしかない。しかし、さらにここまできてもいってしまわざる得ないが、演技論の不在や責任性と綴ることが、すでにそれが物語であるということは、いわざるを得ないしいい過ぎることはないだろう。

きっと世界は、梁や棟の下で無為のうちに息絶えることしかなかった無念の死、そこにしかないはずである。そしてささやかであるが、幾多の無念の死に、すべてを無化する情報にあがなって佇んでいるのは、役者たらんとする極めて個的な表現衝動であることも、また疑いないのである。(文責/闇 黒光・未知座小劇場 2002.04.04)

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演技としての『寝ながら学べる構造主義』

闇 黒光      

ここ最近、本屋に足をはこぶと、そくさくとパソコン書籍売場のまえに立つ。以前ほど激しくなくなったのであるが、その習性からまだ逃れられていない。そんななかフト手に取ったのが文春新書の六月の新刊である、この『寝ながら学べる構造主義』(内田樹著)であった。書名が『寝ながら読める構造主義』でないのが気になったが、ゴロンと横になり読めるのならこれ幸いと購入した。
ところが横になり、寝ながら読めないのである。おもしろいものだから正座になり、読みふけったのであった。個人的な感慨であるが、十年前ではこのように素人のわたしにも分かりやすく構造主義からポスト構造主義の流れを解説することは、難しかっただろうな、などと読後感。
さて、あえてここで『寝ながら学べる構造主義』をもちだすのは、演技論として読んだ『寝ながら学べる構造主義』を少々内容に触れながらまとめてみたいと思いたったからであった。わたしの視点を差し込めば、台詞論、身体論、演技論が咲き乱れているのであって、いかほどか違う眼差しで「演技について」おもしろい話が書けるのではないかというわけである。例によってアウトラインは決まっていない。模索しながらということになる。(2002.07.26)

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