2008/03/15

姿態論草稿  『ネスト』にそって

ポスト @ 10:05:54 | 演劇

 未知座小劇場スタジオ・シエーマ公演『ネスト』は先月、二〇〇八年二月下旬に大阪演劇情報センター・ワンコインシアターとして 『有料公開ゲネプロ・ネスト』として上演されました。未知座小劇場スタジオ・シエーマ公演のほぼ一ヵ月前のことでした。上演時間一時間強。
 過日の公演『大阪物語』の三時間半というのでなく、今回の制作サイドからの要請は一時間半ということでしたので、逸話などを挿入しての上演となる予定です。もちろん要請は要請で、上演時間がなるようになるのではなく、それはあくまでも結果です。この意味でプロということにはならないのでしょうが、やはり書かなければならず、書きたいものがあり、升目の上で鬩ぎあうのですから、これまたやはり、なるようになるしかないようです。例えばですが、上演時間三時間のものを二時間になるように削るのは、わたしの場合、なんとか可能性が見えるような気がします。しかし、二時間のものを三時間にするには、明確に不可能です。そうなったとしてもそれは別物、というしかないようです。
 さて『有料公開ゲネプロ・ネスト』から一ヵ月。これはわたしたちの稽古の期間から考えると、微妙な期間でした。一般性はわかりませんが、何かを集約するには、その先を見てしまうだろう。かといって、改作というのは時間がない。お茶を濁したわけではないのですが、逸話の挿入、という手立てにでました。思惑は、その部位によるもう一つの影、あるいはそのことによる既存の変容、というのがそれなりの展開ということになるのでしょうが、これはやはり希望といったらいいいのか、やはりそうならないといったらいいのか、つまるところ、ここには「説明」という要素が必ずついてきます。ある一つの「もの」にある要素と思われるものを挿入するわけですから、稚拙であったとしてもそれはある「もの」の相対化を意味します。「一つの影、あるいはそのことによる既存の変容」のもうひとつの成り行きです。逸話の挿入とはそのようなものを引き連れてきます。
 この「引き連れて」来たものを何者かに仕立てるにはというのが、この姿態論の取っ掛かりとして箇条書きにでも綴っておくしかないように、あった。
 すでに『ネスト』とは離れています。
 もちろん『ネスト』でもそうでしたが、言葉としての〈鉈〉に導かれています。といっても〈鉈〉は〈鉈〉でしかないわけですから、この〈鉈〉が〈鉈〉であることの、つまり〈鉈〉が〈鎌〉でないことにすべては求められるはずです。ここに〈鉈〉が〈鉈〉であることの問題の巣窟があり、それが現在に現象している、とすることができます。つまり〈鉈〉を持つ側が問題なのではなく、また同時に〈鉈〉を受ける側が問題でもありません。アリストテレスが「理性」を想起したように、わたしたちが「鉈」を想起したことの中にすべては孕まれています。理性は存在ではなく、存在者を存在者たら占めている〈鉈〉が仮設となります。
 このようにして俳優は舞台に立つのですが、ここでは〈鉈〉は姿態論として語られるはずです。言葉を変えれば、鉈になることが問題なのではなく、鉈そのものが姿態論なのです。この意味で姿態論とは演技論の別名にほかなりません。ここまでであればことはハイデガーに任せればいいのですが、ことは舞台での行為です。舞台での行為は可能性を私物化することにほかなりません。
 とするなら、姿態論の限界は〈鉈〉であることとなります。これを逸話もって突き進むには、姿態論の〈鉈〉を、鉈の〈刃先〉にすることです。ここでもまだ〈鉈〉と〈刃先〉は光と影です。この相対性を抜けるには、この〈刃先〉が、可能性を行為するには、やがてその〈刃先〉が出会うであろう、可能性としての痛みとしてある、まだ命名されざる〈刃先〉の出会うであろう可能性としての命名されざるものを、別の命名されざる可能性となして行為すること、それを姿態と呼ぶとき、演技は可能性を行為するのではないのでしょうか。このとき〈鉈〉はもう鉈ではないはずです。

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