2008/03/27

笑いのすすめ・草稿 その1 (演技について 2008.No1)

ポスト @ 14:52:01 | 演劇

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 笑い一般をとりあげようというのではない。
 人間的であろう「笑い」が、わたしたちの一つの感情の発露としての容態であり、また同時にそれが生活レベルでいう周りとの関係を取り結ぶ動作であったり、呼吸の再調整であったりすることは経験として知るが、ここではこれらの位置づけから出発することは避けたい。笑いとは「横隔膜の痙攣」であるというようなスタンスを取ることはやめ、やはり返ってこざるを得ないのかもしれないが、この一般性はわたしの持ち場ではないとするところからはじめるのが相当であるだろう。
 ここで企もうとしているのは演技論である。
 出発すべき地平や言葉があるとすれば、それは「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」ということになる。なぜ「笑い」がわたしたちに必要かと問う文化性等は無用である。いわば「それはどういうことか」という視線から、ここでの思惑としてある脈絡を辿ることができるだろう。これらを見定めて問いを発するとするなら、なぜ「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」のか、ということだろう。この自問が先走り過ぎるとするなら、「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」とはどういうことか、と明示的に設定することにしたい。言葉をかえれば、この「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」という言い方に対する、違和に先立つある種の「腑の落ちかた」とはなにか?
 さて、といいつつもわたしたちは、おかしいから笑う、悲しいから泣くといっても間違いではない。むしろ常識というべきだろう。わたしたちは多分、そこに居る。この常識を逆手に取るわけではないが、重ねて「腹がすいたから飯を喰う」ということを差し出そう。
 おかしい、悲しい、腹がすいたをならべてみる。するとこれらは、わたしたちの生活の中のある状態であるといえる。それをなんらかの地平に導くとするなら、そこには要求や自体を満たす何らかの作業が必要である。だがしかし残念ながらではあるが「飯を喰ったから腹がすいた」とはやはりならない。腹がすいたとは、ある不足の事態であり、それを満たす行為が飯を喰う、ということであろう。しかし、おかしいや悲しいは、身体という糞袋から、なんらかの溢れようとする事態である。これを行為が別の地平にもっていく。でなければ、対象がなくならなければ、わたしたちは止めどなくおかしく、悲しいかもしれない。笑いや泣くという行為は、何かを満たす行為ではなく、それは展開としての作業だといえよう。展開をすることによって、こうある関係を消去することになる。
 二つのことを一つに並べたということになっているが、それを識別するには肉体的なるものと感情的なるものとすればいいのであろうか? いずれにしろこれらは身体的なるものがその出自である。やはり、ここでする「肉体的なるものと感情的なるもの」を、その識別の目安にすることはあまり意味がないように思われる。感情、生理、心理等々という語彙を持ち出したとしても、それは一つの例えに過ぎない。
 ここでまず、おかしいや悲しいや空腹は一時的にあらわれる身体的な思いとしての要求であると仮設する。そうしておいて「腹がすいたから飯を喰う」は単に、内臓器官の落ち着かせ方で始末ができるとしたいだけなのである。もちろん、寝た子を起こす飯の喰い方はあるだろうが……。それに対し、おかしいや悲しいは感覚機関への感情の始末をその作業領域として受け持たされている、ということになるだろう。だがやはり、この物言いも単に目安である。一つの例えに過ぎない。
 こうなると「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」ということを受け入れる腑の落ちかたと、いまひとつの「飯を喰ったから腹がすいた」の腑の落ちなさ加減は、感覚と一次的な身体的要求の差異に求めないということになる。であるなら「腑の落ちさ加減」はわたしたちの考え方や意識の持ちかたという文化性に倣うことはできない。
 この「腑の落ちさ加減」は、それは当たり前のことなのだろうか? 納得という認識の中に消し去ればいいのであろうか? これは常識なのだろうか? そうだとしてここになにか疑義をさしはさむ余地はないのだろうか?
 わたしが出発としてここで差し出したいのは「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」という、さもありなんという腑の落ちかたは、わたしたちの呼吸が深く絡んでいる、ということである。
 一つのものを二つに分かつのは、呼吸である。

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