2008/04/01
笑いのすすめ・草稿 その2 (演技について 2008.No1)
ポスト @ 15:55:14 | 演劇
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「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」というのは逆説ではない。
逆説とは論証をさけ、全体を指し示したかのように提示するトートロジーもどきに成り果てる場合が多いいが、その様子をみせない。またロジックでもレトリックでもないだろう。ましてや俚諺でもない。ある全体と思われる。その容態が、まず一瞬留まりながらも、つづいて腑に落ちるという脈絡を立ち上がらせる。こういえばいいだろうか、「笑うからおかしいのではなく、おかしいから笑う」とは、なにも指し示してはいない、と。
やはりここでは、笑いとおかしさはついにすれ違っているのだ。すれ違うことにより出会う。
これに似た文節を引用してみるなら、あの有名なロ−トレアモン伯爵『マルドロールの歌』-「六の歌」にある一節、
ミシンとコウモリ傘との、解剖台の上での偶然の出会いのように、美しい!(前川嘉男 訳)ということになるだろう。
シュルレアリスム関連の文を読むと、よく出会うことになる。あるいはまた、大岡信は『肉眼の思想』-「言語芸術には何が可能か」で滝口修三の詩の一行を引用している。それは、
ぼくの黄金の爪の内部の滝の飛沫に濡れた客間に来襲する一人の純粋直感の女性。……である。
これらをまずは、言葉の錬金術といえばそれでいいのだろうが、何回かつぶやいてみると、初回の感覚を通り越してあるオマージュといったらいいのか、何らかのイメージが湧き上がってこないだろうか。各要素が実際的な対応がないまま乱反射しているだけではない。たとえば「ミシンとコウモリ傘との、解剖台の上での偶然の出会」には金属的な味がする。滝口修三のそれは、一つの疾走感であったりする。こちら側の個的な嗜好を足蹴にして、言葉がそうあることの力技が行使されているといったらいいのだろうか。演技論としていえば、多分、ここには物理力となった行為がある。
……これ以上の言及を避けるのが懸命であろう。ともあれ、各要素が絡み合っている。そして、一見関係のない要素であるが、わたしたちがその前に立つと、その要素に向かって、ただ意味を強いているだけなのかもしれないのだが。
アルチュール・ランボーは、これらのことを方法とする側から、これまた有名な『見者論』で、以下のようにいう。彼がこの手紙の一文を書いたのは、十六歳のときだったと記憶する。
「見者」でなければならない、「見者」にならなければならないのです。手元に資料がないので上記から引用をさせてもらった。最後の「他の者の倒れた地平から」は概略「前の者の倒れた地平から」の意味だと記憶しているがどうだろう。
この「詩人」は、「あらゆる感覚」の、長く、無制限な、論理的「錯乱」によって「見者」となります。愛と苦痛と狂気のすべての形式です。自らを探求し、精髄だけを残すために、自らの中にあらゆる毒を汲みつくします。あらゆる信念と、あらゆる超人的な力が必要とされる、えも言われぬ拷問であり、そこで彼は、あらゆる人々の中で最も偉大な病人に、最も偉大な罪人に、最も偉大な呪われ人に、――そして至高の「賢者」となります! なぜなら、彼は「未知」に到達するからです! 彼はすでに豊かな自分の魂を誰よりも鍛錬したからです! 彼が未知に到達して、狂乱して自分の見た幻影の理解力を失ったときに、彼は本当にそれを見たのです! 数え切れない前代未聞のものの中での躍動で、彼が死ぬほど疲れ切ればよいのです。他の恐るべき働き手たちがやって来ます。他の者の倒れた地平から、彼らは始めるでしょう。
http://rimbaud.kuniomonji.com/lettres/voyant.html から引用
わたしは上記の引用にまつわることどもを演技論として仮設してきた。であるから、よりわたしたちの日常性に接近して一言で言い切る、「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」を同等なものとして嗅ぎとっているのではないか。それが「腑に落ちる」を導きだしているのではないのか。そうかもしれないが、まだ断定はできない。またあまりにも我田引水、牽強付会、いいように見定めているだけなのかも知れない。
これ以上は遠くへ流れていくことになる。「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」に踏みとどまることにしよう。
ちなみに、未知座小劇場の「未知」とは、このランボーの見者論の「未知」をいうのであった。
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