2008/04/04
笑いのすすめ・草稿 その3 (演技について 2008.No1)
[ 3 ]
わたしたちが「おかしいから笑う」というとき、おかしいは状態であり、笑うは動作であると知っている。だからかそうでないのかは別にして、この状態と動作を結びつける必然や真理性はどこにあるのだろうか、とまず問うことはない。わたしたちにとってそれは一連の流れであることによって、一つのものとなっているからだ。そうして今日、わたしたちは「おかしいから笑う」という。たとえば仮に何らかの必然性や真理性が「おかしいから笑う」という内部に隠されていると誤解をするなら、違う言葉(パロール)であったはずである、ともいえるだろう。まあそうでないから「おかしいから笑う」というしかない。
「おかしいから笑う」や「笑うからおかしい」はやはり一つの恣意性である。ここで留意したいのは、上記の「状態」と「動作」が恣意的なのではなく「おかしいから笑う」ということが恣意的なのである。「いとおかしきは、えみなるかな」であるとするなら、腹筋に揺り動かされる横隔膜の空気の流れは「ハッ、ハッ、ハッ」ではなく「ホ、ホ、ホ」だけであることによって「いとおかしきは、えみなるかな」を支えたと断言できるかもしれない。つまり、ハムレットに「おかしければ、尼寺へ行け!」と吐かせてもいっこうにかまわないのだ。
いずれにしろ、わたしたちがこの「おかしいから笑う」という言語記号的な価値を測定(イメージ)できることによって、「笑うからおかしい」の位置が確定されることになる。そのことによって「おかしいから笑う」は相対化される。相対化されることによって改めて「おかしいから笑う」が思惟の対象にのぼり、「笑うからおかしい」の意味が問われることになる。このように「おかしいから笑うのでなく、笑うからおかしい」というメッセージには、措定ではなく反措定といってもいい構造が孕まれている。
こうなると、通時言語学でいうところの通時態(=歴史性としておきたい)としての「笑うからおかしい」が問題になるのであろうが、それはわたしの任ではない。ただおりにふれ気にかけていると以下のような文に出会うことになる。
笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的(けいれんてき)に収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い止めようとする作用が交錯して起こるようである。ところがある心理学者の説を敷衍(ふえん)して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。ここでの寺田寅彦は、幼少のころからの「何もそこに笑うべき正当の対象のないのに笑う」ということについて書いているので、おかしいと笑いは隔絶されている。そうしての上記の引用文である。つまり、ここには「腑に落ちた」寺田寅彦がいる。
私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。
笑う前にその理由を考えてから笑うという事は不可能であるとしても、笑ってしまったあとで少なくもその行為の解明がつかないのは申し訳のない事であると思っていた。その困難な説明がどうやらできそうな心持ちがしだした。(大正十一年一月『思想』・「笑い」から)
「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫・青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
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