2008/08/15
Linux道具帳・はじめに No1
1、 [ はじめに ]
Linuxをパソコンにインストール、各種サーバを構築し稼動させること、これがここで実現しようとすることのすべてです。ひとことでいえばネットワーク・サービス構築ということになります。
この作業、個的な場合が多く、あまり流れや筋道をおって考えてきませんでした。それはたとえば、自分が理解したように段取り、端折るところは端折って気ままに、まあ、また引き返せばいいだろうという具合に、宿題は宿題として持ち歩けばよいとしてきたのですが、幾人かでのコトとなると、悠長なマイペースというわけにはいきません。スケジュールを考えなければいけない。だからといってTCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)プロトコルを詰めた上で順序だててサーバ構築へと歩を進めることは、個別の作業の面白さを半減させるでしょう。まずは必要と段階に応じて、流れにそって見通していけば、とするのがここでのスタンスです。
Linuxにさわる、何でもいいからLinux、サーバ構築でLinux、訳知り顔でLinux等々です。お互い怪我をしないようにゆっくり行くことにしましょう。
Linuxをパソコンにインストール、まずOSを起動させます。分からなくても、触りたくって、グチャグチャになったら、もう一度インストールすればいいのですから。何度でも挑戦すれば、インストールの段取りは鼻歌混じりでやれようになるというものです。まずは動かしましょう。
もし面白さが見つかるなら、その中でどのように何を納得し、個別の時間で何かを補完することで、さらに興味は倍増するはずです。分からないことが判るようになるということですから、あるイメージがたち現れてくるはずです。もしかしたら、何が今問題となっているのかが伺えるかもしれません。設計思想が垣間見えるかもしれません。こうなればしめたものです。
とりあえず、何でもいいから、気軽に、まずは人の忠告など無視してわがもの顔にLinuxをインストールしてログインしてみることにしましょう。これはなんでもかでも数をこなすということになるかも知れません。インストールを十数回繰り返すことになるかもしれません。いや、それ以上かもしれません。とりあえずですから、あたりをつけての作業というわけですから、時間さえ気にしなければいい、と気構えることにします。とはいってもスケジュールを無視する訳ではありませんので、個人的な作業がより要請される、ということになります。
これらの思惑は、例えばある一つにジャンルの統一性が、仮りに経済学が経済史、経済原論、経済政策という拡がりで一つの科学性を企んでいるとみることができるなら、まずはそのパースペクティブをここではほとんど無視してかかっているということになります。ですが、進行具合で折を見てLinuxがもつその磁場らしきものに触れざるを得なくなるでしょう。そのときはそのときです。
さらに視点をかえればLinuxが、記号論理学や情報論の中でうごめくかもしれません。大きく逸脱してみるなら、情報としての演劇営為を、換言すれば物語論を凌駕する演技の方法としての情報と呼べるものにたどり着かぬ、とは今のところ誰も断言はできないのも確かです。それは、アリストテレスの『詩学』をその俎上にのぼらせることになるかも知れません。プラトン以来、形而上学が形作ってきた2500年という時間の幅の中に、Linuxを叩き込むとになるかもしれません。この戯言は、今のところ戯言を装っているだけであるのか、あるいは否か、それはこれから眺めていくことになる情報の語るに任せるしかないのかも知れません。
なおそれでもここで明確に言えることは、Linuxは現代的な課題である「情報」という幅の中にあるということだけです。
余談ですが、このように文章を綴り始めたついでといってはなんですが、わたしはこのLinuxにかかわる作業を人に説明するということ、その視点ではやってきませんでした。あくまでも個別的な自身の問題性として、大げさにいえばその個的営為は一つの演劇営為たりうるかという自問を、その全体を情報論として射程し、必要な仮説作業を模索することで歩を進めてきました。換言すれば、演技と情報を対置することによって、物語論を揺り動かしてみようというのが仮説命題でした。もちろん情報とは物語のことであるという前提仮説がここにはあります。それは、演劇といわれるものが物語の中で溺死をつづけ、新たなる表現性を模索しえず、情報の磁場の中で佇むしかないのであれば、情報を具現化するTCP/IP・ネットワーク論の中に押し入り、もう一つの演技論を模索するということになります。
そんななかで、今わたしがLinuxをひと言でいい切るとするなら、それはオープンソースと自己責任ということになります。ついでここでは脈絡を割愛し、これを純粋培養すれば、すべてはそして世界はデータベース化できる、というイデオロギーにたどり着くでしょう。
自己責任。なんとも胡散臭い響きですが、ここで演技論とこの言葉をあえて絡めるなら、やはり残念ながら演技とはついに無責任なものです。自己の責任性を関係の中に投げやり、投げ捨てることで無責任の立場を獲得することでラジカルとなり、関係性の中にもう一つの置換しえぬ責任性を仮設する作業です。あえていえばこれはデーターベース化の作業ではありません。それは演技としての行為です。行為とは可能性を具現化する作業仮設であり、可能性としての身体を生きることにほかなりません。それはメルロ=ポンティーとUNIXが話をするということですが……暴論陳謝。
ここは演技論を開陳する場ではありませんので終わりにしますが、つまりLinux等は、プラトンやアリストテレスからの形而上学を、デカルト以降によって自然科学や社会科学を基礎づけたものに転換してしまったことで世界となってしまった認識論的合理性、それを科学主義と呼ぶなら、その最高峰にあると、物語の現在であると、それが文化としての情報論としてあると、そのようにいうことで十分のように思われます。こうなると情報論としてLinux等を射程するとは、2500年に及ぶ時間の幅でそれを相手にするということにほかなりません。楽しむにはそれはもう十分すぎるのではないでしょうか?
ともあれ、話をできるだけ一般化することで具体化し、わたし自身あいまいであったものを平明化することで整理ができれば、このような機会が与えられたことを生かせるのではないかと思っているところです。
さらに門外漢の、重ねて素人のえらそうな物言いになるかもしれませんが、パソコンに触手を伸ばすキモは、判らなくても分かったようにして先に進むこと、ということでしょうか。これから展開されるのはほぼ技術の問題ですから、その時点で留まっている目前の技術が、すべて理解できるなどということは無理なことです。このとき分かったようにして先に進みましょう。先の作業でかつてが氷解する場合も多々あります。それは多分、知識が得られたからではなく、この今の作業等々が付加されることによって、かつてが憶測できるということになるから、ということに近いのではないでしょうか? 位置や発想のずらしによって対象の思考方法が、またわたしの拘りやらが少しだけ見えるようになるということは大いにあるのだと……
なお、この「Linux道具帳・Linuxをインストールしよう!」は、現場での具体的な作業を円滑に進行するための資料として作成したものです。すべてを以降の拙文で補完しようというものではありません。その時点での修正や変更があると思われます。間違い等々はご指摘ください。
さてさてやはりここからの作業は、百余年まえにソシュールが『一般言語学講義』の中で「記号の生を研究する学を考えてみることができる。それは、社会心理学の、そして最終的には一般 的心理学の一部になるであろう。私はそれを記号論[semiology]と呼ぶことにする(ギリシャ語のセメイオン(記号)に由来する)。記号論は記号を構成するもの、記号を支配している法則を示すことになるだろう。この学はいまだに存在しないゆえ、誰もそれがどんなものになるのかを言うことはできない。しかし、それが存在する権利はある、あらかじめ割り当てられる場所が存在するのだ」と予言した記号学の範疇にあるものとなるのだろうか。それは言語の問題として……
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