2008/12/27

『歎異抄』としての演技

ポスト @ 10:28:10 | 演劇

 演劇といわれるものがアプリオリに架設されうるとするなら、それは文化・伝統というある別名のシステムによって紡がれた何かであるから、それはやはり反転してアポステリオリに架設されたものであるというしかないのであって、それでもなおそのシステムとしての演劇にこだわるのであれば、たどり着くものは予期せぬ成熟と、やがて訪れるであろう様式の死滅であるしかない、といわざるを得ないのは文化・伝統の自然成長過程にやはり根底的に規定されてあるからであろう。演劇をして演劇を語る可能性とは、こうしてあらかじめ破綻しているというしかないのだ。いまさら私がいうまでもなく演劇などというものは先駆してどこにもありはしない。したがってそこで表現や演技をどのような意味でも射程することはできないのは明らかである。アプリオリをアリストテレス的にイデア論で絡めとろうと、カントの認識論に依拠して投網をかけようと意味をなさない。
 演技を足場にするしかないのである。だがしかし、演技それ自体を語る言葉はない。それでも私たち未知座小劇場はかろうじて「演技とは可能性を行為することである」と揚言する立場にいるのであるが、では「可能性を行為する」とはどういうことかとここで率直に問うことに関しては、はなはだ戸惑いをおぼえてしまうのである。
 その実態は私たちの日常の稽古場にあるのであるが、ここではあえて一歩踏み込んである何かを示唆できるとするしかない。たとえばライプニッツから流れてクワインの翻訳の不確定性、さらにそれを足蹴にしていくのであろうデイヴィドソンのドグマ批判等々を大きく言語論的展開とするなら、言語哲学や分析哲学と呼ばれるその作業が「言語的活動を律する規則のすべてを明示的な仕方で取り出すことである」なら、ここでは発話することの表現の意味を問っているということになるだろうか。それに対し「可能性を行為する」とは行為することの表現の意味なのだ。私たちにとって発話自体が一義的に、まず問われることではないのだ。それは表現ではない。より多く身体という発話の問題であるのだ。いや、やはり言語哲学や分析哲学に「可能性を行為する」それを安易に対置することは止めよう。言語哲学や分析哲学が先にあるのか、あるいは「可能性を行為する」が先かなどという脈絡は危険を伴う。
 この脈絡に親鸞(1173〜1263)の『歎異抄』をさしはさむことがアイデアでなく可能とするなら、それを『歎異抄』→ 言語哲学や分析哲学 → 「可能性を行為する」としてみることで少しは座りが良くなるだろう。この異なるを歎く『歎異抄』は親鸞の死後40年をして唯円によって親鸞の語録として編まれた。無信心であり、煩悩具足の凡夫である私がわかるのはそう多くないが、それでも本願他力である「信」とその弁証法が突き刺さってくる。『歎異抄』に次の一文がある。

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。(『歎異抄』13から)

 なんとも壮絶なくだりであるが、私がここで引き出したいのは「業縁」ということである。人を殺すということがありうるなら、それは存在の善悪としてではない、倫理性やましてや論理性ではない、業縁ということであろう。だから、ドストエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが金貸しの老婆殺害の正当性を論理化できたとしても、斧を振り下ろす腕力は業縁なのだ。白昼の秋葉原しかりということになる。
 舞台にあなたが俳優として佇み「金貸しの老婆殺害の正当性を論理化」するなら、あなたはプラトン主義や近代主義に依拠し、倫理性、意識性、根拠性等々を総動員しても演劇というドラマは無効である、と親鸞は前提していると読みたいのである。したがって「可能性を行為する」とは「業縁」を行為することに他ならない。そして演技とはなんとまた壮絶な行為であることか、というしかないのである。こうして板の上で役者たらんとする身体とは業深き者の別名となる。

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