2009/01/20
稽古と本番
朝青龍の取組みを何日かテレビでみる。相撲ファンで朝青龍に関心があるというわけではない。そういう時間の巡り合わせだ。九日目の相撲は新大関・日馬富士との一番、寄り倒して朝青龍の圧勝。
素人目でも判ることは、初日のドタバタに比べ、呼吸が乱れていないことだ。これが何を意味するのかわたしにはわからない。余裕が出てきたということなのだろうか?
元力士の解説者が次のようなことを取り組みのあといっていた。わたしなりにまとめると次のようになる。
「本番の一番一番は稽古場の一番とは違います。本番の勝ち星の積み重ねで調子を完全に戻したのでしょう。本番で勝つことがだいじです。稽古不足だとか、稽古が十分だったとかということではありません。それが本番で勝つということです」
この解説者の発言をわたしの立場でよりよく読むなら、稽古とは、稽古場とは違う本番のリズムをその本番の場で私物化するための、統括するための、それを実現するための作業、となる。これが解説者のいう稽古と本番の弁証法の根幹である。ここに虚構性をさしはさむ余地はないのだから、多分それで間違いないだろう。一般論でいえば稽古と本番は別だと仮説することで、多くを導き出すことができるが、ここでは文脈を混乱させることになる。
件の解説者は体力や技の研鑽が必要でないといっているのではないだろう。日々の稽古なしにはどれもありえないのは道理である。ことは、朝青龍が稽古不足であっても、それが綱渡り的であっても、九日目の相撲までで、解説者のいう何かができたということである。「調子を完全に戻してきた」とはそういうことであろう。これが横綱という地位の技量なのか、朝青龍という個的な力士の能力なのか、十年来の力士としての積み重ねの結果なのかそれはわたしにはわからない。判るのは稽古でしなければならないことを、本番でしているということを解説者はいっているということである。勝つためにそうなったのだといってるのだろう。これを単純化すれば、朝青龍は稽古をしてきたと、解説者は逆説としていっていることになるのだが……
こうなると朝青龍は本番で、二つのことをしていることになる。ひとつは勝つこと、いま一つは勝つための調整。わけのわからぬいい方をしてみれば、本番で稽古をしているのである。ウム、この「本番で稽古をしている」はそうとう考えなければならない。ここでいう稽古と、日々の稽古は同音異語である。が、ここでは置いておくことができるだろう。
以上の推論がなにか語っているとするなら、次に気になるのは「本番で勝つ」というその意味合いである。解説者の論理に従えば、稽古不足であっても、本番で勝てば稽古不足を凌駕する勝ち星となるということだが、明らかに、この論理は稽古そのものの位置付けとその内実を無化する。短絡すれば、稽古をしなくても本番で勝てば、稽古の内実を私有できるということになる。ほとんど凡庸な結果論というしかない。勝利の物神化をもたらすが、方法を導くことはないのだ。
これが論理とすれば、抽象論としては正しいとしてもいい。しかし相手がある。相手は一般論として稽古をしているというのが前提とすると、こんな無謀な勝利はありえない。これもまた道理である。この道理を打ち破るには相手が弱いのだというしかない。だが、相手もプロである。つまり解説者は素人向けの無謀な解説をしているということにならないだろうか。そうでなければ解説者は「稽古をしていないから本番の一番で勝つことが大切です。それができているのは稽古をしているのです」と思っていることになる。もちろんこの文節の矛盾には何の意味もない。そうだというだけである。さてと横道に逸れるなら、やはりこう問いかけてみたい。舞台における稽古と本番を直結するつもりはないが、そのとき、舞台の側はどのようにいえば良いだろうか?
抜け道はないようであるが、視点を変えてみよう。
解説者の発言を深読みしてみよう。それが、この発言の真意だろう。つまり、解説者は稽古不足だが、稽古をしていないとは思っていないはずだ。だから「調子を完全に戻す」ことができたとするのであろう。どうも、これもまたおかしな論理である。ドタバタして勝つから稽古不足なのだろうが、しかし勝つということは稽古の結果であり、その上での「調子を完全に戻してきた」のだ。やはり、解説者にとって朝青龍の連勝は不可解なのだ。不可解であるがゆえ、理解の回路を本番の特殊性に求めざるを得なかったのだ。解説者の前提はやはり稽古不足ということである。だが、それは彼の稽古の概念から規定してのことであるということをまだ逸脱していない。
さて、ここで明確にいえることは、解説者の稽古の概念では朝青龍の連勝という事態を捉えきれないということである。換言すれば、解説者の稽古の概念と朝青龍の稽古の概念が異なるのだ、というしかないのである。
これ以上語る言葉はないが、舞台における稽古と本番の絡みを加味していえば、確かに稽古と本番はまるで違う。このことにはいいたい事は多々、山ほどあるが、まずはそれはそれでいい。そこでもいえることは、稽古不足であったとしても、それを前に立てて論理を展開する立場はどこにもない、ということだけである。
どうも後味がわるい。つまり解説者のいうとおうりだとすると、相撲などたいしたことはない、となってしまうのだ。稽古は稽古、本番結果よしでOK。勝負であるから、勝ち負けはあるだろう。それはそれで時の運、仕方がないということになる。だがしかし残念ながら、勝ち負けは抽象的にあるわけではない。稽古と本番に支えられてある以外にはないのだ。だから、やはり次のようにいうしかないだろう。
「勝負ですから勝ち負けはあるでしょうが、朝青龍は連勝で調子を完全に戻しましたね。わたしには判りませんが、やはり、それなりの稽古があったということでしょう。本当のところは朝青龍本人と部屋の親方が決めることでしょうが、あとの六日間が大切です。本場所前の稽古量で乗り切ることができるか、それは朝青龍という力士の力量が問われる六日間です。ですが、朝青龍は横綱です。初日から十全に勝負としてのみ土俵に上がってほしかったですね。それが大相撲の横綱です。」
ここまでくればすべては明らかである。お相撲さんは多くいるが、土俵の上で力士となるのは至難の業であるということである。
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