2009/03/06
翁と秦河勝 ---その1 新熊野神事猿楽
何年まえになるのだろうか? 大阪から月に一度というほどで、複数年にわたり京都に出向いていた。電車を乗り換え、京阪電車の終点・三条駅で降り、東大路通りの市バスで百万遍に向かうと、京都大学内にある西部講堂に着くのであった。路面電車が走っていたかどうか、もう定かではない。
京阪電車がその後、出町柳まで伸びた。いまではここで降り、今出川通りを百万遍まで歩けばいい。わざわざ京都に行くという想いはなくなった。むしろ大阪・京橋までが遠い。道すがら昼過ぎから開いている立ち飲み屋が多いのだ。
数人で乗用車でいく場合は名神高速をおりて国道二号線に出る。京都市内に入り十条を過ぎ、九条の東寺に突き当たると二号線にそって右折れする。九条油小路で国道二号線と別れ、九条通りを東に進み竹田街道や鴨川を越えると、やがて東大路通りに入る。ここまでくれば道なりとなり、八坂神社の山門前やらを通り過ぎていけば目的地に着くのであった。
東大路通りに入ったあたりまでかえってみたい。JR東海道本線を越える手前である。
道の左手から大きな樟の枝葉が、影を落としてせり出している。そぼ降る雨にくすんでいることもあった。これは今熊野の新熊野神社にそびえる樹齢数百年の巨木である。神社の名前から推し測ると御霊を熊野から分祀ということになるのだろうか。樟は1374年(応安7年)にこの神社で行われた「新熊野神事猿楽」のざわめきを聴いていたはずだ。
観阿弥清次(1333-1384)・世阿弥元清(1363-1443)父子はこの新熊野神事猿楽に出演。それは室町三代将軍足利義満の台覧を得た演能であった。世阿弥はこのとき十二才、幼名・鬼夜叉あるいは藤若とよばれていた。
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新熊野神事猿楽の演目はなんであり観阿弥が何を舞ったのか判らない。いや、わたしは知らない。だが、この新熊野神事猿楽をきっかけにして観阿弥の結崎座は都への進出を果たしたことになった。当時、京の都では田楽が主流であり大和猿楽はその勢いに及ばなかったが、足利義満をパトロンにすることによって、絶大なその庇護のもと大和猿楽は猿楽能から能楽となり今日への歩みをはじめた。
観阿弥は結崎座の棟梁として新熊野神事猿楽に座の浮沈をかけたのであろう。だが勝負はすでについていたはずだ。当時、観阿弥の舞台は大和を離れ、その名声は近江にも聞こえていた。この隆盛をきき足利義満は新熊野神社にかけつけたわけである。つまり観阿弥はこの演能の客席に足利義満を坐らせればよかったのだ。それほどの気骨と計算がなければ、都に進出し田楽と勝負するなどという展望はありえない。何せ座の存亡を賭けるわけである。結崎座だけの事に収まらないだろう。ヘタをすれば大和猿楽そのものの消滅にも繋がるはずである。それもまた想定内だ。
この野望はどこから来るのか?はたしてそれは野望なのか?そうしたとしてどうなるのか?単なる上昇志向なのか?わたしにはほとんど理解不能なのだが、観阿弥の伊賀から奈良の結崎への移行の中に萌芽があるように思われる。やはりこれ以上は世阿弥の伝書に聞き続けるしかないだろう。
足利義満の来臨がなった。観阿弥はそれを嵐窓から確認する。場を診る。あとは清めの塩、摺り足の左のせり出しをどう呼吸するかだけであった。観阿弥の「おまーく」の小声で揚幕があがった。
新熊野神事猿楽はこうしておわった。しかしこのとき観阿弥には計算違いが、二つあったはずだ。
新熊野神事猿楽が結崎座の勧進興行であっても、神事である限りには、まず「翁」が行為される。この「能にして能にあらず」といわれる翁は座の最長老が舞うのが慣わしである。この慣わしとは、あるいはこの決め事とは猿楽が猿楽であるための自同律といってもいいのではないだろうか。しかしこのとき太夫である観阿弥がこの言祝ぎを務めたのである。
翁をば、昔は宿老次第に舞いけるを、今熊野の申楽の時、将軍家、初めて御成なれば、一番に出づべき者を御尋ね有べきに、太夫にてなくてはと、南阿弥陀仏一言によりて、清次出仕し、せられしより、是を初めとす。(「申楽談儀」から 『世阿弥 禅竹』日本思想体系24 岩波書店)この瞬間こそ、猿楽が猿楽能になった瞬間である。言葉を換えれば、観阿弥の猿楽は、猿楽と田楽という対概念をすてたのである。論理性として田楽が問題ではなくなったということである。猿楽や田楽から神事を抜けばそれは猿楽でも田楽でもない。観阿弥は能に転位したのでる。このとき同時に観阿弥の大和は伊賀とともに、遠くにあって思う故郷になったのだ。こうして何か選ぶということは、あるものを捨てるということである。ことの抽象化を計るのだ。そうした本質行為はさらなる具体性を導く。
わたしはこの展開を観阿弥の計算違いとしたのだ。正確にはその後が計算できないということである。
翁の内実の変更は、足利義満配下の同朋衆であった南阿弥陀仏という人物の計らいによるとされているが、はたしてどうだろう。同朋衆とは「将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々」のことであるが、南阿弥陀仏が開演直前に「将軍が、太夫に翁を舞っていただきたいと申しておるのですが」で、観阿弥が翁を舞うことになったのではないであろう。
話を判りやすくしてみよう。東京に国立猿楽劇場があった。そこの芸術監督の南阿弥陀仏さんが、仕込みに入った結崎座代表の観阿弥に「急なお願いなんですが、やはりお客さんは、観阿弥さんの翁をみたいと思います。文化振興事業なので文部科学省もそう願っているようです。お宅の事情もあるでしょうが、芸術監督のわたしとしましても、そんな心積りでプランニングしてきたので、なんとかなるんだったらお願いしたいのですが」とのたっまった。乗り込みの日に急にいわれた観阿弥さんは「急に言われても、そら困りますわ。勘弁してくださいや」となるのは当然だろう。
事前の駆け引きがあったと想定するのだが、さてだからといって、観阿弥一人が了承すれば、何とかなるものではない。それが猿楽の翁である。観阿弥が了承すればそれは猿楽と別れを告げるということになるだろう。猿楽が猿楽であるための根拠を捨てるのである。つまり都に進出し、足利義満をパトロンにするということは、あらかじめそのような意味を持っていたことになるとわたしは考える。結崎座は猿楽芸能を根幹とすることを相対化せざるをえないのだ。そのためにはどう考えても結崎座に関わる人々の支持が必要である。観阿弥一人が了承すればそれが決まるということではないのだ。それが猿楽の翁というものであろう。翁の位置はそのように重いものなのだ。こうして事前の決断なしにはことは始まらないのである。
大和猿楽四座といわれる結崎座(観世流)以外の外山座(宝生流)、坂戸座(金剛流)、円満井座(金春流)に話を通したかどうかは知らない。安易にことを運べば、新熊野神事猿楽の翁はないだろう。春日社の若宮祭や興福寺、多武峰寺の法会からも結崎座は外されることになるだろう。いわば小屋つきという営業窓口を失うのであるから、経済的にも成り立たない。地方への神社仏閣の勧進興行もできなくなる。アウトだ。
結崎座は腹を括った。こうして勝負はついた。しかし、そのとき長期的な計算やビジョンが、観阿弥が選び取った猿楽能の向こうに展望としての思い描く能楽があったのではないだろう。とすれば、ついにそれは決意である、ということになる。これらを促したものは田楽、散楽からの香具師、白拍子、角つけ、曲舞、あるいは歌舞を主とする近江猿楽や、他の摂津、丹波各猿楽との熾烈な寡頭競争、緊張感、つまりは興行的な逼迫感。これらが成立するには奈良時代以降の荘園制度が崩壊し、村が成立していなければならない。観客や興行元がなければならない。つまりは労働力によって剰余価値が生産され、遊興という消費が地頭や豪族、あるいは新興の武士階級から宗教的祭事として、権力支配構造上保障されていなければならない。つまりは芸能的な隆盛はやはり観客によって保障される。パトロンとてこの経済構造を無視することはできない。
やがて武士階級が、猿楽の諸流派を何万石かで囲い込むこととなる。何かを捨て安定を得ることで、猿楽の様式や形式が研ぎ澄まされたとしても、ついには観客という大衆に向き合う日が、近代・明治となって訪れるのである。
なんのことはない、情況は本質的には、現在と変わりがないといっているだけであるが、例えば日本中世史の歴史学者である網野善彦(1928-2004)によれば次のようになる。
消滅しつつあるわれわれの原体験につながる社会はどこまでさかのぼれるかというと、だいたい室町時代までさかのぼれるというのがこれまでの研究の常識になっています。つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階では、非常に大きなちがいがある。(『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房)現代の村なり家族という共同体性がからむ社会の様式や原型は、ほぼ十三世紀までさかのぼれる。わたしたちの常識という想像力はそこまでは行使できるだろう、と読むのであるが、網野のいう「消滅しつつあるわれわれの原体験」とは昭和という社会性である。近代にある前近代性。あるいはわたしたちの家屋には失われてしまった暗闇。夜、子供たちが便所へいくことの怖さは、何LDKのマンションにはもうない。納屋もない。つまり、宮崎駿の『となりのトトロ』のなかでしか「まっくろクロスケ」に会えないように、平成のわれわれは、網野とは違って核家族や振り込め詐欺等々という色眼鏡をかけるしかないのではあるが。
こうして、観阿弥が上ることになった京の都はわたしたちの前にある。このときすでに物まね的芸が中心であった大和猿楽は、舞を取り入れ、謡いを洗練させた猿楽となっていた。この変遷と展開は世阿弥による『風姿花伝』前半の観阿弥からの聞き書きの整理による演技論から知ることができる。
もう一つの計算違いに移ろう。
上記のように、新熊野神事猿楽は成功した。しかしそれは足利義満の心の動きまで制御できるものではなかった。翁のあと序破急の流れに従って五番立てで演目が披瀝されたであろう。ここで足利義満は鬼夜叉の美貌に執心したのである。それほどの美形な稚児態であったということだろうが、それもこれも観阿弥の舞台が秀逸でなければ意味がない。そうして、新熊野神事猿楽の全体を突き抜け、世阿弥の姿態が足利義満の心を射抜いたというしかない。この寵愛なしに足利義満の絶大なその庇護もなかったであろう。足利義満、十七歳。
露骨にいえば、座長が看板女優に「おまえ、あの谷町と寝て一発やってこい。そして懐取ってきてくれ」というわけである。ここではスケールが違う、男色である、父子である。一筋縄ではいかぬねじれやゆがみがある。月の影が言霊をねじ伏せる。
……世阿弥の『風姿花伝』でいう花や幽玄、老いというメルクマールになにも重ならないというのは不自然である。
これは観阿弥の計算違いであったのであろうか?そうは言い切れないのも一般論であろう。いずれにしろ世阿弥は嫉妬と嫉みの海にも投げ出されたのである。このあたりは瀬戸内寂聴の小説『秘花』が少し触れている。
観阿弥は1384年、勧進先の駿河で演能ののちその地で没した。世阿弥、二十一歳。
七十二歳の世阿弥は佐渡へ流される。八十一歳没。佐渡で死んだのか、都に帰ってこれたのかは詳らかでない。娘婿の金春禅竹の元で亡くなったのかもしれない。波乱の人生ということになるのだろうが、今はこれ以上深入りできない。ただ、どうであったとしても、波乱であったとしても、深められなければならなかったものは、より強く模索されたとわたしたちは知っている。そして世阿弥はその『風姿花伝』の最後でこういうのである。
一代一人の相傳なり。たとひ、一子たりと云うとも、無器用の者には傳ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす」と云へり。(『風姿花伝』岩波文庫)わたしたちがこの世阿弥の決意を、あるいはこの演技観がいかほどのものであるのかを知ることになるのは、新熊野神事猿楽から遠く離れてである。子供ができず親族から養子をとり、やがて長男が産まれる。この長男は演能先で死を迎える。それは病死なのか、それとも、あるいは……。次男は倦厭を残し出家する。それでも「無器用の者には傳ふべからず」と不器用ではなく構え、己をそこに立たせるしかないのであれば、おのずから佐渡流刑は用意される。わたしはそう読んでしまうのである。
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