2009/09/23

NPO大阪演劇情報センターからのお知らせ・舞台へのある試み 2009.09 No2

ポスト @ 10:56:08 | 演劇

 NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。
 『舞台へのある試み』に、以下の拙文を「『草枕』と『赤とうがらし帝国』 」のタイトルで投稿しました。
 なお、「NPO大阪演劇情報センターからお知らせ」はこのNo2までとします。


『草枕』と『赤とうがらし帝国』

 グレン・グールド(Glenn Herbert Gould 1932年-1982年)が、デビュー以来の、ほぼ十年間のコンサート活動を止めたのが1964年……このようなことが昨年の夏、テレビで何週かにわたって放送されていました。どうやらコンサートという一回性や、聴衆という現場性に耐えきれないのだと観たのですが、つまりこの天才ピアニストは、なにゆえか観客を拒否したとわたしは観てしまったのです。これはどういうことなのだ?
 今年になってここに良寛(1758年-1831年)があたまをもたげてしまいました。フトです。脈絡はなかったのですが、もうほとんどグレン・グールドが良寛に重なってしまいました。曹洞宗の僧侶から十数年の時を経て隠遁し、非俗非僧を貫きながら歌人、漢詩人、書家であったとしても道元を手放さなかったのですから、二人の構造に大差はありません。二人はわたしの前では、すでに観客を拒否しています。
 今はこの二人を少々持て余していますが、ゆっくりすすめるしかありません。書き出しから少々外れてしまっていますが、ここでは一番出っ張ったところで書いていきたく、また次回からもストックから引き出し吟味して綴るというのも面白くありませんので、よろしくお付き合いいただければと。
 さて、グレン・グールドの愛読書には聖書とともに夏目漱石の『草枕』があったらしいのですが、この『草枕』はどうやら70数回読んだということらしいのです。こうなるとウィトゲンシュタインの『カラマーゾフの兄弟』や某劇作家の『三四郎』などが思い起こされますが、この数の桁数にはなかなか思いがおよびません。それでもなぜ夏目漱石の『草枕』なのだと、考えてしまいます。ぼつぼつグレン・グールドからはなれないと、先行きどうなるかわかりませんので、この『草枕』に足場を移しますが、この小説の中で、わたしがいちばん気になるのは、次のとこでしょう。
まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。一寸涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。(『夏目漱石全集 3』 ちくま文庫から)
 できるならここに『草枕』のすべてを閉じ込めてしまいたい、というのがわたしの思いです。もちろんわたしは夏目漱石の『草枕』が、いわゆる独断すれば『詩学』であったり、反・小説であるのではないか等々のような位置付けをできるものではありません。だから、なぜ、何をこう構えているのだと思うしかありません。しかし、この「うれしさ」という場は危うい。
 「嬉しさだけの自分」とは一つの充足です。この充足の指し示す自体にグレン・グールドは目算したのではなく、むしろ「危うさ」の匂いを嗅ぎつけたのだ、というのがとりあえずのアタリの付け具合です。わたしはここからはじめるしかありません。それが朽ちるかもしれない予断であったとしても。
 もう遁走しなければなりません。そしてこの危うさの場から、舞台に視線を投げてみます。
 わたしたちは一般に、この「涙を十七字に纏めた時」の構造から出発します。こう独断するのはいかがかと思いますが、多分可能という偏見で、それが予断されてある演劇的な場とここでは言い切ります。すると基本の選択肢は、この危うさに留まりつづけるのか、引くのか、撃って出るのか、という具合になるしかありません。
 わたしたち未知座小劇場は「危うさに留まりつづける」ことを決意するものですが、それを言葉を換えて演技の方法として佇むと呼んでいます。佇む本質は地球ゴマ(=宇宙ゴマ)ですから、静は動であるというパラドクスを劇的なるものと見定めることになります。十全な動によって、静を装います。緊張感と集中力は動を突き抜けて、静に住み着きます。このようにして、能楽への人知れぬ興味が湧き出てくるのですが、それはさておき、夏目漱石のいう「嬉しさだけの自分」は充足という結果にもにた事態ですから、引くも良し、撃って出るも良しの、行き場のない危うさのなかにあります。つまり「嬉しさだけの自分」は行為ではないということになります。「泣く事の出来る男」はそこで佇んではいない。
 夏目漱石の『門』ではこの危うさの展開を見ることができます。主人公・宗助と御米夫婦の日常に、不断の日常というものが劇的なるものの置き所です。このような言い方が『門』の一面だけになるかどうかわかりませんが、宗助が禅宗の門をたたくまでは、演劇的なるものの場は、「引く」ことによって日常を劇的なる静として住まわせます。もちろん、この「引く」ことの典型として、引くことを何重にも覆い隠すものとして、わたしたちはベケットの『ゴドーを待ちながら』を持っていることはいうにおよびません。
 さて、撃って出るとは物語への出立です。
 どうやら、ようやくわたしの射程する劇団鹿殺し『赤とうがらし帝国』公演にたどり着けたようです。ここでの演劇的なるものの場の置き所は巫女・白拍子による祝詞です。その詔によって男は昔も今も闘うのでしょう。あえていえばこれはデマゴギーです。それは捏造された歴史です。アジア的共同性からいえば、それは幻想です。古事記や万葉集をじっくり読むしかないのですが、それでも物語は歴史を相対化しようとします。
 もちろんこの仮説はわたしの個人的な嗜好でしかありません。それを踏まえてさらに突き進めば、このまつりごとによって、人と人との血脈を、骨脈に昇華させることを劇的なるものとして見定めたはずなのです。
 ではなぜ、骨脈は骨として物理性を獲得しなかったのか?これもまた予断するしかないのですが、マツリゴトをお祭りやイベントとして演劇の配下に置いてしまったからなのです。『赤とうがらし帝国』での祀りはイベントではなく、ドラマツルギーとして己を主張することで物語を行使しえたのではないのでしょうか。
 どうも舌足らずです。それはやはり「撃って出る」ことの信じ具合と、信じなさ具合が名状しがたく窈然としてあるということになるのでしょう。つまり、いまのところ「信」などという言葉を持ち出して、事を論理だと嘯けないからなのです。ともあれ、わたしは『赤とうがらし帝国』の客席で、そんなことを把住していたことは確かでした。

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