カテゴリー : 演劇
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2009/09/21
NPO大阪演劇情報センターからのお知らせ・舞台へのある試み 2009.09 No1
NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。
NPO大阪演劇情報センター・オフィシャルサイト『null』に新しいコンテンツをアップしました。演劇関係のblogサイトといった呈です。タイトルは「舞台へのある試み」です。
以下、案内文を掲載します。
はじめまして、河野と申します。 わたしはNPO法人大阪演劇情報センター会員であり、未知座小劇場に所属しています。よろしくお願いします。
さて、このページは、大阪演劇情報センター・オフィシャルサイト「null」のコンテンツの一つです。河野個人のページ・blogではありません。こうなりますと、大阪演劇情報センターの動きの一つとなり、かた苦しくなりそうですが、そうは構えておりません。フランクにいければと。
過日、大阪演劇情報センター会員であり、劇企画パララン翠光団の務川さんと話が巡り巡って、芝居をみた帰りの話のようなものを、そこで終わらせるのではなく、何らかのかたちで、もう少し具体的に情報交換できないか、ということになりました。では、わたしがその場を用意しましょう、ということでこのようなページになっています。
こうした思惑は一度や二度ではなかったと記憶します。数年前にも雑談の中で出てきたはずです。具体的にはなりませんでした。わたしの実務的な作業の怠慢が、どうしようもないネックだったことは間違いないのですが、どうも、ある舞台についての情報交換は、いわゆる「劇評」という属性が払拭できないのではないのか、という思いを、わたしが気楽に投げ捨てられなかったからなのでしょう。
このことの地平や真意は、別項でまとめていくしかないのでしょうが、わたしが務川さんに向かって語ることで、少しはこの思いが緩和されるのではないのかと、考えたわけです。もちろん、とはいえこれは公開されているのですが……。
ここでの発言は、それが公開されていようと、まずは言葉がある特定の個人に向かって送られるわけですから、文章という論が一般化されるということとは、明らかに構造が違います。ですが、このような試みは初めてですので、思いどうりになるかどうかも分ったものではありません。この構造から逆手をとられるかもしれません。ともあれ、まずはこれではじめてみようと。
こうして、わたしは務川さんに言葉を発します。対応が返されます。対応でないかもしれません。またもう一つのプロセスはこの逆です。これがワンクールです。この過程で情報交換は処理されてしまいたい、という希望です。一往復でおわるかどうか、断定できません。
ここでの前提は、同じ舞台について、ということです。正確には同じ日の舞台についてということになりますが、スケジュールがうまく合うかどうかも、これまた分ったものではありません。ともあれ、わたしについていえることは、あまり芝居をみにいくことがないという怠慢さが、なくなるであろうということは、ハッキリすることでしょう。
ここで綴っていることは、まだわたしの個人的な思惑です。暗黙の了解めいた話に過ぎません。ということで、とりあえずのわたしの側からの仮説でしょう。
始めるのが順当でしょう。
さて、このページを読んでいただいている方で、この公演に行ってみてはどうだというのがありましたら、お知らせのコメントなどいただけましたら、望外の喜びです。
2009/03/24
翁と秦河勝 ----その4 宿神
| 八尾高安・教興寺 | 八尾太子堂・物部守屋大連墳 |
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この拙文は、未知座小劇場の次回公演の企画書として書き始めた。いつもであれば、一二枚のザラ紙のレジメであるが、今回は、恒例であるパソコンのエディタの前でする儀式をこれにかえた。代替がなる内容と思われたからである。
秘儀の内容を明らかにすると、その意義がうすれるので、この段階でもためらっているのであるが、本企画書の意図がこれに重なるので、さしさわりのない範疇で、紙上公開してみよう。式次第を例にとると、以下のようになる。
初めに清めの塩を用意する。この塩は、大分県国東半島の沖にある姫島の磯崎神宮から届く。姫島からすれば、沖合いにある宇佐神宮の神事に納めるものである。このあたりは渡来人の秦一族が飛鳥時代に開墾した土地であり、いまでも造酒、蚕、鍛冶などが盛んであり、その豊かな土地がらの恩恵にあずかろうというわけである。塩の発注をインターネットのショッピングサイトで済ませると、水風呂を使い禊に入る。この段階で別火となる。「大秦の塩・シャクシ」と名づけられた塩がクロネコメール便で届くのが一週間ほどなので、別火の期間はこれに重なる。別火といってもたいしたことはない。カップヌードルと海苔弁当がこれを助けてくれる。肉や魚は口にしない。少々きついのが、風呂に入れないことと、顔を洗えないこと、万葉集の三十三首の暗記と謡である。これに手を抜くともともこもないのである。なお、次の三首ははずせない。
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2009/03/19
翁と秦河勝 ---その3 世阿弥と金春禅竹
黒澤明の映画『七人の侍』に、記憶がさだかではないが、村人たちと侍の田植えシーンがあったと思う。苗は空を舞い随所に投げられる。稲が植えられていく。一方では鳴り物入りで、畦で豊穣を祈念する田植え唄が歌われていた。やがて実りの秋を迎えるわけだから、それを狙って野武士たちは村を襲ってくるのだから、村を守る死闘はまだのはずだ。華やいでいたように思う。いや、戦いが終わったあとのフィナーレだったかもしれない。これがわたしの拙い田楽の一つのイメージとしてある。田舞いといったらいいのかもしれない。不確かな、この原型のないものから歴史上にあったであろう田楽を考えていくのだが、それはなかなか明確に像を結ばない。村の祭礼などで儀式めいた魔事退散などとしての田楽もあったのであろう。各戸の祝言などで家内安全を謡ったのかもしれない。
この田楽や猿楽のことを折口信夫(1887〜1953)は『翁の発生』で次のように書いている。
まず「日本人の国家以前から常世神(トコヨガミ)といふ神の信仰は、常世人として海の彼方の他界から来る」というのがはじめである。これが折口信夫の「マレビト」であるとしていいのだろうが、このマレビトは「初めは、初春に来るものと信じられてゐた」が、四季折々の節目に訪れるようになり、やがて山中にすみつき山人となり、山人から山の神となる。「常世の国を、山中に想像するやうになつたのは、海岸の民が、山地に移住したから」ということだが、この山の神が里に下りてくるのが、翁の原型である、と『翁の発生』で論述している。山から現れ、かよっていたこの山の神は、やがて里の神社にすみつき神となった。ここには日本人の狩猟時代から農耕時代へと移った時間の幅があるのだろう。こうして神事は「翁舞」である。いうまでもなく「翁面」は御神体として振る舞い、翁舞は鎮魂や五穀豊穣の祭りの儀式として行われた。この神事が呪師猿楽の呪術性を経て翁猿楽となっていくのだろう。
これらはわたしがここでする『翁の発生』の都合のいい概略であるかもしれないが、さらにこれを折口信夫は『能楽に於ける「わき」の意義・「翁の発生」の終篇』では次のようにまとめている。
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2009/03/10
翁と河勝 ---その2 翁式三番
「翁」とは?
どうもこの問いなしには、いくばくかの明証性なしには次がつづかないと思われる。だがそれは時間のなかで、歴史に埋没して明確にはならない、というのが現状だろう。
であるなら、いや本当は、わからないというそのことが大きな問いであるのではないだろうか。それともわからないのでいいのか。そのうえでわたしたちは猿楽の翁、田楽の翁、能の翁などを持っているのか?この問いと重なっている。
時間がみえないのか?たかが数百年前のことに、肝心なことになるとなぜ諦めざるを得ないのか?文化といわれるものがどこかで覆り、想いが及ばないのだろうか?いずれにしろわたしたちは室町時代にこのまま留まっているわけにはいかなくなくなってきたのだろう。つぎの世阿弥の言葉に移り、さらなる足場をひろげてみよう。
世阿弥は『風姿花伝』のなかでも特異な章と思われる、少々脈絡の異なった「第四 神儀云」で次のように語っている。
一、平の城にしては、村上天皇の御宇に昔の上宮太子の御筆の申樂延年の記を叡覧あるに、先づ、神代、佛在所の始まり、月氏・震旦・日域に伝はる狂言綺語をもて、讃佛轉法輪の因縁を守り、魔縁を退けて、福祐を招く、申樂舞を奏すれば、國穏やかに、民静に、壽命長遠なりと、太子の御筆あらたなるによりて、村上天皇、申楽をもて天下の御祈祷たるべしとて、その比、かの河勝、この申樂の藝を傳ふる遠孫、秦氏安なり。六十六番の申樂を紫宸殿にて仕る。その比、紀權守と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が妹聟なり。これをも相伴ひて、申樂をす。(つづきは右下「もっと読む」をクリックです)
その後、六十六番までは勤め難しとして、その中を選びて、稲經翁、代經翁三番申楽、父助これ三つを定む。今の代の式三番これなり。(『風姿花伝』世阿弥・岩波文庫)
2009/03/06
翁と秦河勝 ---その1 新熊野神事猿楽
何年まえになるのだろうか? 大阪から月に一度というほどで、複数年にわたり京都に出向いていた。電車を乗り換え、京阪電車の終点・三条駅で降り、東大路通りの市バスで百万遍に向かうと、京都大学内にある西部講堂に着くのであった。路面電車が走っていたかどうか、もう定かではない。
京阪電車がその後、出町柳まで伸びた。いまではここで降り、今出川通りを百万遍まで歩けばいい。わざわざ京都に行くという想いはなくなった。むしろ大阪・京橋までが遠い。道すがら昼過ぎから開いている立ち飲み屋が多いのだ。
数人で乗用車でいく場合は名神高速をおりて国道二号線に出る。京都市内に入り十条を過ぎ、九条の東寺に突き当たると二号線にそって右折れする。九条油小路で国道二号線と別れ、九条通りを東に進み竹田街道や鴨川を越えると、やがて東大路通りに入る。ここまでくれば道なりとなり、八坂神社の山門前やらを通り過ぎていけば目的地に着くのであった。
東大路通りに入ったあたりまでかえってみたい。JR東海道本線を越える手前である。
道の左手から大きな樟の枝葉が、影を落としてせり出している。そぼ降る雨にくすんでいることもあった。これは今熊野の新熊野神社にそびえる樹齢数百年の巨木である。神社の名前から推し測ると御霊を熊野から分祀ということになるのだろうか。樟は1374年(応安7年)にこの神社で行われた「新熊野神事猿楽」のざわめきを聴いていたはずだ。
観阿弥清次(1333-1384)・世阿弥元清(1363-1443)父子はこの新熊野神事猿楽に出演。それは室町三代将軍足利義満の台覧を得た演能であった。世阿弥はこのとき十二才、幼名・鬼夜叉あるいは藤若とよばれていた。
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2009/01/20
稽古と本番
朝青龍の取組みを何日かテレビでみる。相撲ファンで朝青龍に関心があるというわけではない。そういう時間の巡り合わせだ。九日目の相撲は新大関・日馬富士との一番、寄り倒して朝青龍の圧勝。
素人目でも判ることは、初日のドタバタに比べ、呼吸が乱れていないことだ。これが何を意味するのかわたしにはわからない。余裕が出てきたということなのだろうか?
元力士の解説者が次のようなことを取り組みのあといっていた。わたしなりにまとめると次のようになる。
「本番の一番一番は稽古場の一番とは違います。本番の勝ち星の積み重ねで調子を完全に戻したのでしょう。本番で勝つことがだいじです。稽古不足だとか、稽古が十分だったとかということではありません。それが本番で勝つということです」
この解説者の発言をわたしの立場でよりよく読むなら、稽古とは、稽古場とは違う本番のリズムをその本番の場で私物化するための、統括するための、それを実現するための作業、となる。これが解説者のいう稽古と本番の弁証法の根幹である。ここに虚構性をさしはさむ余地はないのだから、多分それで間違いないだろう。一般論でいえば稽古と本番は別だと仮説することで、多くを導き出すことができるが、ここでは文脈を混乱させることになる。
件の解説者は体力や技の研鑽が必要でないといっているのではないだろう。日々の稽古なしにはどれもありえないのは道理である。ことは、朝青龍が稽古不足であっても、それが綱渡り的であっても、九日目の相撲までで、解説者のいう何かができたということである。「調子を完全に戻してきた」とはそういうことであろう。これが横綱という地位の技量なのか、朝青龍という個的な力士の能力なのか、十年来の力士としての積み重ねの結果なのかそれはわたしにはわからない。判るのは稽古でしなければならないことを、本番でしているということを解説者はいっているということである。勝つためにそうなったのだといってるのだろう。これを単純化すれば、朝青龍は稽古をしてきたと、解説者は逆説としていっていることになるのだが……
こうなると朝青龍は本番で、二つのことをしていることになる。ひとつは勝つこと、いま一つは勝つための調整。わけのわからぬいい方をしてみれば、本番で稽古をしているのである。ウム、この「本番で稽古をしている」はそうとう考えなければならない。ここでいう稽古と、日々の稽古は同音異語である。が、ここでは置いておくことができるだろう。
以上の推論がなにか語っているとするなら、次に気になるのは「本番で勝つ」というその意味合いである。解説者の論理に従えば、稽古不足であっても、本番で勝てば稽古不足を凌駕する勝ち星となるということだが、明らかに、この論理は稽古そのものの位置付けとその内実を無化する。短絡すれば、稽古をしなくても本番で勝てば、稽古の内実を私有できるということになる。ほとんど凡庸な結果論というしかない。勝利の物神化をもたらすが、方法を導くことはないのだ。
これが論理とすれば、抽象論としては正しいとしてもいい。しかし相手がある。相手は一般論として稽古をしているというのが前提とすると、こんな無謀な勝利はありえない。これもまた道理である。この道理を打ち破るには相手が弱いのだというしかない。だが、相手もプロである。つまり解説者は素人向けの無謀な解説をしているということにならないだろうか。そうでなければ解説者は「稽古をしていないから本番の一番で勝つことが大切です。それができているのは稽古をしているのです」と思っていることになる。もちろんこの文節の矛盾には何の意味もない。そうだというだけである。さてと横道に逸れるなら、やはりこう問いかけてみたい。舞台における稽古と本番を直結するつもりはないが、そのとき、舞台の側はどのようにいえば良いだろうか?
抜け道はないようであるが、視点を変えてみよう。
解説者の発言を深読みしてみよう。それが、この発言の真意だろう。つまり、解説者は稽古不足だが、稽古をしていないとは思っていないはずだ。だから「調子を完全に戻す」ことができたとするのであろう。どうも、これもまたおかしな論理である。ドタバタして勝つから稽古不足なのだろうが、しかし勝つということは稽古の結果であり、その上での「調子を完全に戻してきた」のだ。やはり、解説者にとって朝青龍の連勝は不可解なのだ。不可解であるがゆえ、理解の回路を本番の特殊性に求めざるを得なかったのだ。解説者の前提はやはり稽古不足ということである。だが、それは彼の稽古の概念から規定してのことであるということをまだ逸脱していない。
さて、ここで明確にいえることは、解説者の稽古の概念では朝青龍の連勝という事態を捉えきれないということである。換言すれば、解説者の稽古の概念と朝青龍の稽古の概念が異なるのだ、というしかないのである。
これ以上語る言葉はないが、舞台における稽古と本番の絡みを加味していえば、確かに稽古と本番はまるで違う。このことにはいいたい事は多々、山ほどあるが、まずはそれはそれでいい。そこでもいえることは、稽古不足であったとしても、それを前に立てて論理を展開する立場はどこにもない、ということだけである。
どうも後味がわるい。つまり解説者のいうとおうりだとすると、相撲などたいしたことはない、となってしまうのだ。稽古は稽古、本番結果よしでOK。勝負であるから、勝ち負けはあるだろう。それはそれで時の運、仕方がないということになる。だがしかし残念ながら、勝ち負けは抽象的にあるわけではない。稽古と本番に支えられてある以外にはないのだ。だから、やはり次のようにいうしかないだろう。
「勝負ですから勝ち負けはあるでしょうが、朝青龍は連勝で調子を完全に戻しましたね。わたしには判りませんが、やはり、それなりの稽古があったということでしょう。本当のところは朝青龍本人と部屋の親方が決めることでしょうが、あとの六日間が大切です。本場所前の稽古量で乗り切ることができるか、それは朝青龍という力士の力量が問われる六日間です。ですが、朝青龍は横綱です。初日から十全に勝負としてのみ土俵に上がってほしかったですね。それが大相撲の横綱です。」
ここまでくればすべては明らかである。お相撲さんは多くいるが、土俵の上で力士となるのは至難の業であるということである。
2009/01/19
塩田千春『After That -皮膚からの記憶』の世界 その1
塩田千春(1972〜)の世界を、わたしの側から何とか言葉にしてみたい、というのがここでの思惑である。
言葉にする……。
ある舞台に立会ったあと、それを言葉にする必要はあまりない。わたしたちの稽古場や、未知座小劇場の舞台で解消すればことはたりる。そうできるかどうかは別にして、それが正統であり、それ以外にはない。もちろん、あまりの阿呆らしさに言葉を失うこともある。その逆は、また多くは、言葉にしなければならないことは舞台を離れてある。
……なんというか「あまりの阿呆らしさに言葉を失う」などと綴るから、何かが捻じ曲げられ、考えなくてもいいことに足場を移さざるをえないことになるのだが、それはわたしが、そしてわたしたちが状況に即してあるしかないという別名に過ぎないといえばそうなのだが、このいたしかなさが救い難いのは、情況論に耐えうる情況に転化することができないのではないかということが、ことの本質のようにも思われる。黙ってそこを通り過ぎれば良いようなものの、そうはいかないのが煩悩具足の、これまたいたしかなさである。つまり、このなんとも判ったような言い方をしてしまうのが、煩悩具足のどうしようもないだらしなさであり、三度いたしかたない。二言三言いつも多いのだ。この文章もまたしかりかも知れない。
さて、上記の「その逆」だが、これは演劇といわれるものの範疇にはないことになるだろう。あえてそうすることが方法なのだ。繰り返せば「その逆」であるものも「わたしたちの稽古場や、未知座小劇場の舞台で解消すれば」、そうできればそれが最良の手立てであるが、すべてが望むようにいくわけではない。言葉にせざるをえない。それは「稽古場や、未知座小劇場の舞台」を突き動かすためにこそ、言葉にしなければならないのだ。それは多くは、演劇といわれて括られるであろうものの範疇外にあるのである。できるなら、それを情況といいたいのだ。それは演技そのものなのだが。……ここでも演劇をして演劇を語ることはできない。
思いつくまま羅列することは容易い。
日本舞踊の「武原はん(1903-1998)」である。正確には「武原はんと井上八千代(1905-2004)」となる。このお二方はすでに亡くなられているが、先日、テレビでかつての舞台が放映されていた。武原はんの『ゆき』はことさら動かない。そう思われる。井上八千代の『長刀八島』は動きそのものである。わたしのなけなしの日本舞踊観からすれば大きく逸脱している。何故だ?いそいそと二十年前の『日本の舞踊』(渡辺保・著)を引き出し、読み直す始末である。何とか言葉にしてみたい。
分析哲学あるいは言語哲学では言葉の表現の意味が問われる。わたしの位置からすればそれは発話のことであるのだが、これを表現として絡みとり、プラトン・アリストテレス以降の哲学的課題に応えうると架設するのはなぜか?これは演劇的課題(?)といかに絡むのか?ソシュールと木田元が発露する反哲学としてのハイデッガーでは駄目なのか?多分そこがわたしのウィトゲンシュタインになるのかもしれない。これも言葉にしてみたい。
演劇を演劇をして死滅させるに似て、仏道に帰依した親鸞が、思想家たらざるをえない親鸞に転位するその脈絡はどのように用意されざるを得なかったのか?非僧非俗の愚禿をにんじるとき表現としての浄土はどのようにして表現たりうるのか?やはり言葉にしてみたい。法然や親鸞の専修念仏に対するその出自を問った明恵上人の根拠論の正当性は演技論たりうるか?
三木成夫の圧倒的な時間軸をともなった解剖学は、演劇的身体論たりうるか?メルロ・ポンティーは?
夏目漱石はなぜ夏目漱石でありえたのか?
きりがない。
高島野十郎の遺作『ノート』にもたどり着いていない。
これらの百の思惑が揺れに揺れ、ぶれにぶれようと一つの拘りを言葉にしてみることができるなら、小躍りしてみることはやぶさかでないが、可能なものはその一つにまとわり付いた余剰なものを言葉にできるだけなのかもしれない。幾多はこんな予感に規定されて立ち上がってくるのだが、そこを潜り抜けることで、辛うじて爪痕を立てることができるのではないか……そう思い知らされる。
さて、こうしていまわたしは塩田千春の前に立っている。正確には佇んでいる。
昨年の八月の下旬、大阪の国立美術館に、ある芸大の卵学生とモリエール展を見に行った。これが目的であった。入り口前のフロアーで『塩田千春 精神の呼吸』展が催されていた。モリエール展のチケットを購入するとこれも入場できるのであった。悪いがモリエール展は二の次となった。
わたしは塩田千春という方を知らない。まったく知らない。そうして『大陸を越えて』から『眠っている間に』と歩いていく。『After That -皮膚からの記憶』に移っていく。ここで佇む。
飛びタッパゆうに二十尺はあるだろう大きな作品である。
わたしはこうして今、徒手空拳で塩田千春の『After That -皮膚からの記憶』の前に佇んでいるのであった。昨年の八月以来……危険である。
参考URL
『舞ひとすじ武原はん』・http://www.nihonbuyo.com/video/han.html
塩田千春ホームページ ・http://www.chiharu-shiota.com/jp/
『塩田千春 精神の呼吸』・http://www.nmao.go.jp/japanese/chiharu_shiota/works/index.html
2009/01/12
高島野十郎『月』と沈黙と…
暗転論が可能なら……
高島野十郎(1890〜1975)の『からすうり』を最初にみたのは何時のことだろうか?もちろん実物ではない。ずいぶん前だという記憶しかないが、そのまずはの印象がスーパーリアリズムということだったから、例えば「1970年前後からニューヨークを中心に進められた写実主義の傾向」ということになれば、それ以降ということになる。だが、そんなに前でもない。その後、雑誌をめっくっていて偶然出くわしたのかもしれない。たぶんこのとき「高島野十郎」と『からすうり』は強固に結びついてはいないかったはずだ。
『過激な隠遁 高島野十郎評伝』を読む機会があった。何よりもまず驚いたのが著者の川崎浹が『テロリスト群像』の翻訳者だったことだ。瞬時に何かが目覚め、ある追憶に導かれ、予期せぬ水辺に叩き込まれてしまう。読みすすみ高島野十郎と川崎浹の出会いが偶然だということがわかるのだが。
カラー刷りの挿絵で紹介されている『月』と『蝋燭』が気になってきた。『菜の花』の花がすべてこちらを向いているものも何かうらめしい。うまくいえないが、それは静寂に埋もれた名付け難い息吹が眼をあけてこちらに視線を預けているような、静謐に隠れた吐息、といえばまずはいいだろうか。これらは明らかである。それは高島野十郎の視線であり、息吹、吐息であるのだ。言葉を換えればこの視線とは高島野十郎の佇みであり、そして息吹は呼吸であり、吐息は鼓動であるということは間違いない。わたしたちはその現場に立ち会っているのだ。高島野十郎の佇みに寄り添ってわたしたちも佇んでいるのだ。
だが『月』は違う。暗闇のなかに高島野十郎は佇んでいる。より雄弁にである。例えば『蝋燭』では高島野十郎はその前に佇んでいる。あるいは『蝋燭』の炎により近い。つまり佇む場を予感させる。だが『月』ではそこは高島野十郎の佇みそのものなのだ。
中空に浮かぶ月。これを取り巻く、淡く緑色に化身した闇。としても月が闇を指し示すのではない。また闇が、月を浮き上がらせるのでもない。月と闇は補償的ではなく、補完的でもなくそこにある。だからといってそれらは独自ではない。それは『雨 法隆寺塔』の五重塔と、これでもかというなかに消え入る細線の雨に似るだろうか?
ここまでくればもう『月』全体を、わたしは沈黙と呼ぶことができる。
この全体はいうまでもなく、舞台でいうところの暗転のことに他ならない。暗転とは沈黙のことであり、そうすることでより雄弁である。ここには、暗転であるという場があるのだ。
わたしが今更いうまでもなく、舞台における暗転という交わしてあったのではない約束事は、舞台の側からの都合や、段取りで用意するものでは断じてない。沈黙は登場すべくして登場するしかないのだ。なぜなら、沈黙とは発話に至るための言霊の住処であるからだ。そこは逃げ込む場ではないのだ。客席でのわたしは、暗闇という沈黙のなかで、爛々と眼を輝かせる。瞑想は時間のなかで具体化し、やがて明らかになるであろう舞台を射抜かんとしているだろう。ここでの道具転換の雑音など愚の骨頂である。暗闇という沈黙でしかなしえぬことは、客席にはあるのである。だが、わたしはそのような沈黙を信用したことはない。舞台の側からすれば、それは手の付けられないものだからである。脈絡として沈黙を用意するのは至難の態と知るだけである。こうして未知座小劇場の舞台に暗転はない。最後の「幕」の一字があるだけである。
それでもなお、このような言霊の住処から、板の上に登り役者たらんとする身体は出立する。そんな場に、高島野十郎の身体は佇んでいるのである。
高島野十郎の前には舞台はないわけであるから、それではかれは何を行為しているのかといえば、見定めているのである。つまりそれは佇むということである。そして雄弁な沈黙を見定めんとすることに限りはない。佇みには限りがない。
高島野十郎は佇み、見定めんと見続ける。一つの作品を仕上げるのに、こうして十数年を要するのかもしれない。それは完成ではなくふん切るのであろう。……人知れず涙腺を隠し。俳優が、奈落から舞台に立ち向かうふん切りにも似て。
こうして暗転とは、沈黙とは、出立のための地平であろう。そこが高島野十郎の『月』である。
追記: 『月』は数枚、『蝋燭』は十数枚以上の作品があるようです。ここに画像データを引用できるようにすれば良いのですが、その作業は省きました。著作権等々の手続きを知りません。で、検索URLで「高島野十郎」と「沈黙」を検索しましたら、以下のURLが現れました。沢山あるようですが、とりあえずです。 いずれもリンクは未了承です。
『没後30年 高島野十郎展』・http://blog.livedoor.jp/errance/archives/cat_1103894.html
福岡県立美術館には高島野十郎絵画の相当数のコレクションがあるようです。
福岡県立美術館 野十郎の部屋・http://fpmahs1.fpart-unet.ocn.ne.jp/cont_j/topics/topics_det1_6.php?TOPICS_ID=181
2008/12/27
『歎異抄』としての演技
演劇といわれるものがアプリオリに架設されうるとするなら、それは文化・伝統というある別名のシステムによって紡がれた何かであるから、それはやはり反転してアポステリオリに架設されたものであるというしかないのであって、それでもなおそのシステムとしての演劇にこだわるのであれば、たどり着くものは予期せぬ成熟と、やがて訪れるであろう様式の死滅であるしかない、といわざるを得ないのは文化・伝統の自然成長過程にやはり根底的に規定されてあるからであろう。演劇をして演劇を語る可能性とは、こうしてあらかじめ破綻しているというしかないのだ。いまさら私がいうまでもなく演劇などというものは先駆してどこにもありはしない。したがってそこで表現や演技をどのような意味でも射程することはできないのは明らかである。アプリオリをアリストテレス的にイデア論で絡めとろうと、カントの認識論に依拠して投網をかけようと意味をなさない。
演技を足場にするしかないのである。だがしかし、演技それ自体を語る言葉はない。それでも私たち未知座小劇場はかろうじて「演技とは可能性を行為することである」と揚言する立場にいるのであるが、では「可能性を行為する」とはどういうことかとここで率直に問うことに関しては、はなはだ戸惑いをおぼえてしまうのである。
その実態は私たちの日常の稽古場にあるのであるが、ここではあえて一歩踏み込んである何かを示唆できるとするしかない。たとえばライプニッツから流れてクワインの翻訳の不確定性、さらにそれを足蹴にしていくのであろうデイヴィドソンのドグマ批判等々を大きく言語論的展開とするなら、言語哲学や分析哲学と呼ばれるその作業が「言語的活動を律する規則のすべてを明示的な仕方で取り出すことである」なら、ここでは発話することの表現の意味を問っているということになるだろうか。それに対し「可能性を行為する」とは行為することの表現の意味なのだ。私たちにとって発話自体が一義的に、まず問われることではないのだ。それは表現ではない。より多く身体という発話の問題であるのだ。いや、やはり言語哲学や分析哲学に「可能性を行為する」それを安易に対置することは止めよう。言語哲学や分析哲学が先にあるのか、あるいは「可能性を行為する」が先かなどという脈絡は危険を伴う。
この脈絡に親鸞(1173〜1263)の『歎異抄』をさしはさむことがアイデアでなく可能とするなら、それを『歎異抄』→ 言語哲学や分析哲学 → 「可能性を行為する」としてみることで少しは座りが良くなるだろう。この異なるを歎く『歎異抄』は親鸞の死後40年をして唯円によって親鸞の語録として編まれた。無信心であり、煩悩具足の凡夫である私がわかるのはそう多くないが、それでも本願他力である「信」とその弁証法が突き刺さってくる。『歎異抄』に次の一文がある。
またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。(『歎異抄』13から)
なんとも壮絶なくだりであるが、私がここで引き出したいのは「業縁」ということである。人を殺すということがありうるなら、それは存在の善悪としてではない、倫理性やましてや論理性ではない、業縁ということであろう。だから、ドストエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが金貸しの老婆殺害の正当性を論理化できたとしても、斧を振り下ろす腕力は業縁なのだ。白昼の秋葉原しかりということになる。
舞台にあなたが俳優として佇み「金貸しの老婆殺害の正当性を論理化」するなら、あなたはプラトン主義や近代主義に依拠し、倫理性、意識性、根拠性等々を総動員しても演劇というドラマは無効である、と親鸞は前提していると読みたいのである。したがって「可能性を行為する」とは「業縁」を行為することに他ならない。そして演技とはなんとまた壮絶な行為であることか、というしかないのである。こうして板の上で役者たらんとする身体とは業深き者の別名となる。
NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。
『舞台へのある試み』に、以下の拙文を「『草枕』と『赤とうがらし帝国』 」のタイトルで投稿しました。
なお、「NPO大阪演劇情報センターからお知らせ」はこのNo2までとします。
『草枕』と『赤とうがらし帝国』
グレン・グールド(Glenn Herbert Gould 1932年-1982年)が、デビュー以来の、ほぼ十年間のコンサート活動を止めたのが1964年……このようなことが昨年の夏、テレビで何週かにわたって放送されていました。どうやらコンサートという一回性や、聴衆という現場性に耐えきれないのだと観たのですが、つまりこの天才ピアニストは、なにゆえか観客を拒否したとわたしは観てしまったのです。これはどういうことなのだ?今年になってここに良寛(1758年-1831年)があたまをもたげてしまいました。フトです。脈絡はなかったのですが、もうほとんどグレン・グールドが良寛に重なってしまいました。曹洞宗の僧侶から十数年の時を経て隠遁し、非俗非僧を貫きながら歌人、漢詩人、書家であったとしても道元を手放さなかったのですから、二人の構造に大差はありません。二人はわたしの前では、すでに観客を拒否しています。
今はこの二人を少々持て余していますが、ゆっくりすすめるしかありません。書き出しから少々外れてしまっていますが、ここでは一番出っ張ったところで書いていきたく、また次回からもストックから引き出し吟味して綴るというのも面白くありませんので、よろしくお付き合いいただければと。
さて、グレン・グールドの愛読書には聖書とともに夏目漱石の『草枕』があったらしいのですが、この『草枕』はどうやら70数回読んだということらしいのです。こうなるとウィトゲンシュタインの『カラマーゾフの兄弟』や某劇作家の『三四郎』などが思い起こされますが、この数の桁数にはなかなか思いがおよびません。それでもなぜ夏目漱石の『草枕』なのだと、考えてしまいます。ぼつぼつグレン・グールドからはなれないと、先行きどうなるかわかりませんので、この『草枕』に足場を移しますが、この小説の中で、わたしがいちばん気になるのは、次のとこでしょう。
できるならここに『草枕』のすべてを閉じ込めてしまいたい、というのがわたしの思いです。もちろんわたしは夏目漱石の『草枕』が、いわゆる独断すれば『詩学』であったり、反・小説であるのではないか等々のような位置付けをできるものではありません。だから、なぜ、何をこう構えているのだと思うしかありません。しかし、この「うれしさ」という場は危うい。
「嬉しさだけの自分」とは一つの充足です。この充足の指し示す自体にグレン・グールドは目算したのではなく、むしろ「危うさ」の匂いを嗅ぎつけたのだ、というのがとりあえずのアタリの付け具合です。わたしはここからはじめるしかありません。それが朽ちるかもしれない予断であったとしても。
もう遁走しなければなりません。そしてこの危うさの場から、舞台に視線を投げてみます。
わたしたちは一般に、この「涙を十七字に纏めた時」の構造から出発します。こう独断するのはいかがかと思いますが、多分可能という偏見で、それが予断されてある演劇的な場とここでは言い切ります。すると基本の選択肢は、この危うさに留まりつづけるのか、引くのか、撃って出るのか、という具合になるしかありません。
わたしたち未知座小劇場は「危うさに留まりつづける」ことを決意するものですが、それを言葉を換えて演技の方法として佇むと呼んでいます。佇む本質は地球ゴマ(=宇宙ゴマ)ですから、静は動であるというパラドクスを劇的なるものと見定めることになります。十全な動によって、静を装います。緊張感と集中力は動を突き抜けて、静に住み着きます。このようにして、能楽への人知れぬ興味が湧き出てくるのですが、それはさておき、夏目漱石のいう「嬉しさだけの自分」は充足という結果にもにた事態ですから、引くも良し、撃って出るも良しの、行き場のない危うさのなかにあります。つまり「嬉しさだけの自分」は行為ではないということになります。「泣く事の出来る男」はそこで佇んではいない。
夏目漱石の『門』ではこの危うさの展開を見ることができます。主人公・宗助と御米夫婦の日常に、不断の日常というものが劇的なるものの置き所です。このような言い方が『門』の一面だけになるかどうかわかりませんが、宗助が禅宗の門をたたくまでは、演劇的なるものの場は、「引く」ことによって日常を劇的なる静として住まわせます。もちろん、この「引く」ことの典型として、引くことを何重にも覆い隠すものとして、わたしたちはベケットの『ゴドーを待ちながら』を持っていることはいうにおよびません。
さて、撃って出るとは物語への出立です。
どうやら、ようやくわたしの射程する劇団鹿殺し『赤とうがらし帝国』公演にたどり着けたようです。ここでの演劇的なるものの場の置き所は巫女・白拍子による祝詞です。その詔によって男は昔も今も闘うのでしょう。あえていえばこれはデマゴギーです。それは捏造された歴史です。アジア的共同性からいえば、それは幻想です。古事記や万葉集をじっくり読むしかないのですが、それでも物語は歴史を相対化しようとします。
もちろんこの仮説はわたしの個人的な嗜好でしかありません。それを踏まえてさらに突き進めば、このまつりごとによって、人と人との血脈を、骨脈に昇華させることを劇的なるものとして見定めたはずなのです。
ではなぜ、骨脈は骨として物理性を獲得しなかったのか?これもまた予断するしかないのですが、マツリゴトをお祭りやイベントとして演劇の配下に置いてしまったからなのです。『赤とうがらし帝国』での祀りはイベントではなく、ドラマツルギーとして己を主張することで物語を行使しえたのではないのでしょうか。
どうも舌足らずです。それはやはり「撃って出る」ことの信じ具合と、信じなさ具合が名状しがたく窈然としてあるということになるのでしょう。つまり、いまのところ「信」などという言葉を持ち出して、事を論理だと嘯けないからなのです。ともあれ、わたしは『赤とうがらし帝国』の客席で、そんなことを把住していたことは確かでした。