<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<?xml-stylesheet href="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/rss/style.css" type="text/css"?>
<rdf:RDF xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
         xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
         xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
         xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
         xml:lang="ja">
<channel rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/rss/recent.php">
<title>闇 黒光/更新記録・編集後記</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/index.php</link>
<dc:date>2009-09-23T10:56:08+0900</dc:date>
<description>
闇 黒光/更新記録・編集後記 - RSS (RDF Site Summary) Feed.
</description>
<items>
<rdf:Seq>
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=259" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=258" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=257" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=256" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=254" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=251" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=247" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=245" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=243" />
<rdf:li rdf:resource="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=242" />
</rdf:Seq>
</items>
</channel>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=259">
<title>NPO大阪演劇情報センターからのお知らせ・舞台へのある試み 2009.09 No2</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=259</link>
<dc:date>2009-09-23T10:56:08+0900</dc:date>
<description>
　NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。
　『舞台へのある試み』に、以下の拙文を「『草枕』と『赤とうがらし帝国』 」のタイトルで投稿しました。
　なお、「NPO大阪演劇情報センターからお知らせ」はこのNo2までとします。


『草...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。<br />
　<a href="http://npo.odic.ne.jp/blog/blogn262/blognplus/"　 target="_blank">『舞台へのある試み』</a>に、以下の拙文を「『草枕』と『赤とうがらし帝国』 」のタイトルで投稿しました。<br />
　なお、「NPO大阪演劇情報センターからお知らせ」はこのNo2までとします。<br />
<br />
<br />
<h2>『草枕』と『赤とうがらし帝国』</h2> 
　グレン・グールド（Glenn Herbert Gould　1932年-1982年）が、デビュー以来の、ほぼ十年間のコンサート活動を止めたのが1964年……このようなことが昨年の夏、テレビで何週かにわたって放送されていました。どうやらコンサートという一回性や、聴衆という現場性に耐えきれないのだと観たのですが、つまりこの天才ピアニストは、なにゆえか観客を拒否したとわたしは観てしまったのです。これはどういうことなのだ？<br />
　今年になってここに良寛（1758年-1831年）があたまをもたげてしまいました。フトです。脈絡はなかったのですが、もうほとんどグレン・グールドが良寛に重なってしまいました。曹洞宗の僧侶から十数年の時を経て隠遁し、非俗非僧を貫きながら歌人、漢詩人、書家であったとしても道元を手放さなかったのですから、二人の構造に大差はありません。二人はわたしの前では、すでに観客を拒否しています。<br />
　今はこの二人を少々持て余していますが、ゆっくりすすめるしかありません。書き出しから少々外れてしまっていますが、ここでは一番出っ張ったところで書いていきたく、また次回からもストックから引き出し吟味して綴るというのも面白くありませんので、よろしくお付き合いいただければと。<br />
　さて、グレン・グールドの愛読書には聖書とともに夏目漱石の『草枕』があったらしいのですが、この『草枕』はどうやら70数回読んだということらしいのです。こうなるとウィトゲンシュタインの『カラマーゾフの兄弟』や某劇作家の『三四郎』などが思い起こされますが、この数の桁数にはなかなか思いがおよびません。それでもなぜ夏目漱石の『草枕』なのだと、考えてしまいます。ぼつぼつグレン・グールドからはなれないと、先行きどうなるかわかりませんので、この『草枕』に足場を移しますが、この小説の中で、わたしがいちばん気になるのは、次のとこでしょう。<br />
<font color="black">
<blockquote>まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。一寸涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。(『夏目漱石全集 ３』 ちくま文庫から)
</blockquote>
</font>
　できるならここに『草枕』のすべてを閉じ込めてしまいたい、というのがわたしの思いです。もちろんわたしは夏目漱石の『草枕』が、いわゆる独断すれば『詩学』であったり、反・小説であるのではないか等々のような位置付けをできるものではありません。だから、なぜ、何をこう構えているのだと思うしかありません。しかし、この「うれしさ」という場は危うい。<br />
　「嬉しさだけの自分」とは一つの充足です。この充足の指し示す自体にグレン・グールドは目算したのではなく、むしろ「危うさ」の匂いを嗅ぎつけたのだ、というのがとりあえずのアタリの付け具合です。わたしはここからはじめるしかありません。それが朽ちるかもしれない予断であったとしても。<br />
　もう遁走しなければなりません。そしてこの危うさの場から、舞台に視線を投げてみます。<br />
　わたしたちは一般に、この「涙を十七字に纏めた時」の構造から出発します。こう独断するのはいかがかと思いますが、多分可能という偏見で、それが予断されてある演劇的な場とここでは言い切ります。すると基本の選択肢は、この危うさに留まりつづけるのか、引くのか、撃って出るのか、という具合になるしかありません。<br />
　わたしたち未知座小劇場は「危うさに留まりつづける」ことを決意するものですが、それを言葉を換えて演技の方法として佇むと呼んでいます。佇む本質は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/地球ゴマ" target="_blank">地球ゴマ(=宇宙ゴマ)</a>ですから、静は動であるというパラドクスを劇的なるものと見定めることになります。十全な動によって、静を装います。緊張感と集中力は動を突き抜けて、静に住み着きます。このようにして、能楽への人知れぬ興味が湧き出てくるのですが、それはさておき、夏目漱石のいう「嬉しさだけの自分」は充足という結果にもにた事態ですから、引くも良し、撃って出るも良しの、行き場のない危うさのなかにあります。つまり「嬉しさだけの自分」は行為ではないということになります。「泣く事の出来る男」はそこで佇んではいない。<br />
　夏目漱石の『門』ではこの危うさの展開を見ることができます。主人公・宗助と御米夫婦の日常に、不断の日常というものが劇的なるものの置き所です。このような言い方が『門』の一面だけになるかどうかわかりませんが、宗助が禅宗の門をたたくまでは、演劇的なるものの場は、「引く」ことによって日常を劇的なる静として住まわせます。もちろん、この「引く」ことの典型として、引くことを何重にも覆い隠すものとして、わたしたちはベケットの『ゴドーを待ちながら』を持っていることはいうにおよびません。<br />
　さて、撃って出るとは物語への出立です。<br />
　どうやら、ようやくわたしの射程する<a href="http://shika564.com/wordpress/?p=3163" target="_blank">劇団鹿殺し『赤とうがらし帝国』</a>公演にたどり着けたようです。ここでの演劇的なるものの場の置き所は巫女・白拍子による祝詞です。その詔によって男は昔も今も闘うのでしょう。あえていえばこれはデマゴギーです。それは捏造された歴史です。アジア的共同性からいえば、それは幻想です。古事記や万葉集をじっくり読むしかないのですが、それでも物語は歴史を相対化しようとします。<br />
　もちろんこの仮説はわたしの個人的な嗜好でしかありません。それを踏まえてさらに突き進めば、このまつりごとによって、人と人との血脈を、骨脈に昇華させることを劇的なるものとして見定めたはずなのです。<br />
　ではなぜ、骨脈は骨として物理性を獲得しなかったのか？これもまた予断するしかないのですが、マツリゴトをお祭りやイベントとして演劇の配下に置いてしまったからなのです。『赤とうがらし帝国』での祀りはイベントではなく、ドラマツルギーとして己を主張することで物語を行使しえたのではないのでしょうか。<br />
　どうも舌足らずです。それはやはり「撃って出る」ことの信じ具合と、信じなさ具合が名状しがたく窈然としてあるということになるのでしょう。つまり、いまのところ「信」などという言葉を持ち出して、事を論理だと嘯けないからなのです。ともあれ、わたしは『赤とうがらし帝国』の客席で、そんなことを把住していたことは確かでした。<br />
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=258">
<title>NPO大阪演劇情報センターからのお知らせ・舞台へのある試み 2009.09 No1</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=258</link>
<dc:date>2009-09-21T12:36:04+0900</dc:date>
<description>
　NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。
　NPO大阪演劇情報センター・オフィシャルサイト『null』に新しいコンテンツをアップしました。演劇関係のblogサイトといった呈です。タイトルは「舞台へのある試み」です。
　以下、案内文...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　NPO大阪演劇情報センターからお知らせします。<br />
　NPO大阪演劇情報センター・<a href="http://npo.odic.ne.jp/xoops/"　 target="_blank">オフィシャルサイト『null』</a>に新しいコンテンツをアップしました。演劇関係のblogサイトといった呈です。タイトルは「<a href="http://npo.odic.ne.jp/blog/blogn262/blognplus/index.php"　 target="_blank">舞台へのある試み</a>」です。<br />
　以下、案内文を掲載します。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　はじめまして、河野と申します。
　わたしはNPO法人大阪演劇情報センター会員であり、未知座小劇場に所属しています。よろしくお願いします。<br />
　さて、このページは、大阪演劇情報センター・オフィシャルサイト「null」のコンテンツの一つです。河野個人のページ・blogではありません。こうなりますと、大阪演劇情報センターの動きの一つとなり、かた苦しくなりそうですが、そうは構えておりません。フランクにいければと。<br />
　過日、大阪演劇情報センター会員であり、劇企画パララン翠光団の務川さんと話が巡り巡って、芝居をみた帰りの話のようなものを、そこで終わらせるのではなく、何らかのかたちで、もう少し具体的に情報交換できないか、ということになりました。では、わたしがその場を用意しましょう、ということでこのようなページになっています。<br />
　こうした思惑は一度や二度ではなかったと記憶します。数年前にも雑談の中で出てきたはずです。具体的にはなりませんでした。わたしの実務的な作業の怠慢が、どうしようもないネックだったことは間違いないのですが、どうも、ある舞台についての情報交換は、いわゆる「劇評」という属性が払拭できないのではないのか、という思いを、わたしが気楽に投げ捨てられなかったからなのでしょう。<br />
　このことの地平や真意は、別項でまとめていくしかないのでしょうが、わたしが務川さんに向かって語ることで、少しはこの思いが緩和されるのではないのかと、考えたわけです。もちろん、とはいえこれは公開されているのですが……。<br />
　ここでの発言は、それが公開されていようと、まずは言葉がある特定の個人に向かって送られるわけですから、文章という論が一般化されるということとは、明らかに構造が違います。ですが、このような試みは初めてですので、思いどうりになるかどうかも分ったものではありません。この構造から逆手をとられるかもしれません。ともあれ、まずはこれではじめてみようと。<br />
　こうして、わたしは務川さんに言葉を発します。対応が返されます。対応でないかもしれません。またもう一つのプロセスはこの逆です。これがワンクールです。この過程で情報交換は処理されてしまいたい、という希望です。一往復でおわるかどうか、断定できません。<br />
　ここでの前提は、同じ舞台について、ということです。正確には同じ日の舞台についてということになりますが、スケジュールがうまく合うかどうかも、これまた分ったものではありません。ともあれ、わたしについていえることは、あまり芝居をみにいくことがないという怠慢さが、なくなるであろうということは、ハッキリすることでしょう。<br />
　ここで綴っていることは、まだわたしの個人的な思惑です。暗黙の了解めいた話に過ぎません。ということで、とりあえずのわたしの側からの仮説でしょう。<br />
　始めるのが順当でしょう。<br />
　さて、このページを読んでいただいている方で、この公演に行ってみてはどうだというのがありましたら、お知らせのコメントなどいただけましたら、望外の喜びです。<br />
</font>
</blockquote >

</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=257">
<title>『Linuxをインストールしよう！』資料・謹告</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=257</link>
<dc:date>2009-08-03T10:25:18+0900</dc:date>
<description>
謹告

　ご無沙汰いたしておりますが、皆様におかれましてはご健勝のことと推察申し上げます。
　さて、このほど大阪演劇情報センターでは、活動の足場をより拡げ、さらなる思索を求め、オンデマンド出版と銘打ち、出版物の発行を手がけることになりまし...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
<Div Align="center">謹告</Div>
<br />
　ご無沙汰いたしておりますが、皆様におかれましてはご健勝のことと推察申し上げます。<br />
　さて、このほど大阪演劇情報センターでは、活動の足場をより拡げ、さらなる思索を求め、オンデマンド出版と銘打ち、出版物の発行を手がけることになりました。デジタル出版とともにその企画を充実していくことにいたしました。
　大阪演劇情報センターのNPO法人化とともに、この企画は想起されたのですが、遅々としてすすまず、ならば一つの形象を物理化することで、さらなる形体の具体化を推し進めることとし、このほど『Linuxをインストールしよう！』を発刊、皆様にお届けする次第です。<br />
　オンデマンド出版の他の具体的な展開内容は後日、大阪演劇情報センターのウエブ・オフィシャルサイトで公開し、皆様の資料に供するものといたしますが、ご意見やご批判等をいただければ、望外の喜びとするところです。<br />
　それでは、今年も猛暑が叫ばれております。さらにご自愛ください。<br />
<br />
　　　各位<br />
<Div Align="right">2009年7月吉日&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</Div>
<Div Align="right">NPO大阪演劇情報センター</Div>
<Div Align="right">株式会社　オフィスゼット&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</Div>
<Div Align="right">未知座小劇場&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</Div>
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=256">
<title>お知らせ・『Linuxをインストールしよう！』</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=256</link>
<dc:date>2009-07-21T11:19:25+0900</dc:date>
<description>
お待たせいたしました。『Linuxをインストールしよう！』の発送を始めました。ご予約いただいた皆様には、まもなく届くと思います。今しばらくお待ちください。
また、NPO大阪演劇情報センター・http://npo.odic.ne.jp/xo...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
お待たせいたしました。『Linuxをインストールしよう！』の発送を始めました。ご予約いただいた皆様には、まもなく届くと思います。今しばらくお待ちください。<br />
また、<a href="http://npo.odic.ne.jp/xoops/"  target="_blank">NPO大阪演劇情報センター・http://npo.odic.ne.jp/xoops/</a>に
オンライン購入フォームが設置されました。価格は、B5版 212頁 定価 2,500円（本体 2,381円+税）と送料です。振込み用紙を同封して発送いたします。<br />
とりあえず、お知らせまで。<br />
<br />
<img src="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/resources/book1.jpg"  width="200" height="290"　align="left"　alt="表紙" />
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=254">
<title>翁と秦河勝　　----その4　宿神</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=254</link>
<dc:date>2009-03-24T16:05:04+0900</dc:date>
<description>


八尾高安・教興寺
八尾太子堂・物部守屋大連墳










　この拙文は、未知座小劇場の次回公演の企画書として書き始めた。いつもであれば、一二枚のザラ紙のレジメであるが、今回は、恒例であるパソコンのエディタの前でする儀式をこれに...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
<table width="600" border="0" align="center" >
<tr>
<th align="center" >八尾高安・教興寺</th>
<th align="center" >八尾太子堂・物部守屋大連墳</th>
<tr>
<td align="center" >
<img src="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/resources/dsc00025.jpg"  width="300" height="240"  border="0" alt="教興寺">
</td>
<td align="center" >
<img src="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/resources/dsc00031.jpg"  width="300" height="240"  border="0"  alt="物部守屋大連墳">
</td>
</tr>
</table>
</p>
<p>　この拙文は、未知座小劇場の次回公演の企画書として書き始めた。いつもであれば、一二枚のザラ紙のレジメであるが、今回は、恒例であるパソコンのエディタの前でする儀式をこれにかえた。代替がなる内容と思われたからである。<br />
　秘儀の内容を明らかにすると、その意義がうすれるので、この段階でもためらっているのであるが、本企画書の意図がこれに重なるので、さしさわりのない範疇で、紙上公開してみよう。式次第を例にとると、以下のようになる。<br />
　初めに清めの塩を用意する。この塩は、大分県国東半島の沖にある姫島の磯崎神宮から届く。姫島からすれば、沖合いにある宇佐神宮の神事に納めるものである。このあたりは渡来人の秦一族が飛鳥時代に開墾した土地であり、いまでも造酒、蚕、鍛冶などが盛んであり、その豊かな土地がらの恩恵にあずかろうというわけである。塩の発注をインターネットのショッピングサイトで済ませると、水風呂を使い禊に入る。この段階で別火となる。「大秦の塩・シャクシ」と名づけられた塩がクロネコメール便で届くのが一週間ほどなので、別火の期間はこれに重なる。別火といってもたいしたことはない。カップヌードルと海苔弁当がこれを助けてくれる。肉や魚は口にしない。少々きついのが、風呂に入れないことと、顔を洗えないこと、万葉集の三十三首の暗記と謡である。これに手を抜くともともこもないのである。なお、次の三首ははずせない。<br />
</p>
<p>(つづきは右下「もっと読む」をクリックです)<br />
<br />
<!-- more -->
</p>
<blockquote >
<font size="-1"> 
神代より いひ傳てけらく、空見つ大和の國は、すめろぎのいつくしき國、言霊の幸はふ國と語りつぎ、いひつがひけり（巻5-894）<br />
言靈の八十の衢に夕占とふ。占、まさに告れ。妹に逢はむよし（巻11-2506）<br />
磯城島の大倭の國は、言靈の助くる國ぞ。まさきくありこそ（巻13-3254）<br />
（折口信夫全集4,5・中公文庫）<br />
</font>
</blockquote >
<p>　
　「大秦の塩・シャクシ」が届くと、再び水風呂をとり、パソコンの前に行き一つまみの塩を、キーボードに三度まく。一つまみが多ければ多いほどいい。さらに別袋の塩を秦河勝が588年に聖徳太子の命によって建立したという大阪八尾高安・教興寺に赴き、お供えする。この帰り道に、大阪八尾太子堂・物部守屋大連墳に手を合わせ地鎮する。物部守屋大連墳は、大聖勝軍寺の山門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったといわれる「守屋池」の並びにある。この二ヵ所はわたしの家から、自転車でそう遠くないので二三時間ですむのである。<br />
　以前は、キーボードが塩のおかげですぐイカレたが、今は秘事のためのキーボードをジャンク屋で二三百円で買い求めたので、使いまわしをするようにしているのであった。<br />
　これらの秘儀の後、パソコンの前に座れば、すぐさま言霊がわたしに降霊し、指先がキーボードの上で踊る。エディタがたちどころに文字列を並べ、モニターを埋めつくすのである。三日もあけず上演台本の脱稿である。プリンターが追いつかない。<br />
　苦渋の選択で、秘儀を一切包み隠さず開陳したが、ある方が「そんなバカな！」と青筋たててムキになられては不本意である。遺憾、心が痛む。寂寞。七八割の方の支持と賛同がここで得られてもそんなことがなんになろう。ならば百歩譲って、これを単なるデマゴギーとしてもいい。その上で、次はあらかじめ逸話として披瀝することで、上述の秘儀を補完することにしよう。<br />
　この逸話が一般的なものかどうか、多くの方のものであるかどうかまったくわからない。<br />
　舞台の話である。わたしたちは公演が近づくと、また本番開演の数時間前には、当然であるがリハーサルを行う。各所を移動する公演の場合でも同じである。未知座小劇場の小屋で週末ごとに長期公演を行う場合は、ウィークデーにも行うことにもなる。ゲネプロ（Generalprobe・ゲネラールプローベ・独）といっていい。出演俳優にすれば、本番がステージ数のほぼ倍の数となる。これらの作業をやってきてもうずいぶん長い年月が経つが、その中で一二回といった片手で足りる出会いがあった。これは多分、経験や体験に閉じ込める範疇ではない。わたしにはどうしても処理できない舞台があったのである。公言したことがないといっていい。<br />
　俳優はゲネプロと本番を分け隔てることはない。総数分の一ではない。決定的なちがいは観客がいるかいないかであるが、わたしはいつもそこで観客となる。語弊があるが、開演してしまえばゲネプロも本番もないのである。こんななかで、開演した今日の舞台がすすんでいく。やがてわたしは、あきらかに空気の違いを感じる。張りつめ方が違う。リズムがその中に消える。すべては取り込まれていく。企んだことがいつもより十全に展開されているからではない。なにかが付加されているのだ。俳優たちもその中にある。<br />
　……これだけである。多分、俳優は終わった後、互いに目くばせをして、いつものとの違いや、語ることのできない緊張感をその視線に預けて、いわくいい難いものを交し合っているはずだ。彼らにもわかったのである。この段階では、これはなんなのだ、なんだったのだという自問に浸るしかできないのである。わたしはといえば狼狽はしないまでも、これはおかしい、こんなことがあるはずがない、企んだことではない、とつぶやいていたはずだ。受け入れ難かったのである。<br />
　すべての公演スケジュールが終わったあとで、次第に明らかとなってくる。あの舞台は違う生き方をしていた。あの舞台だけなぜあんなに違うのだ。エネルギーが凝縮されその密度によって見ることのできない尾が陽炎のように地を這うのであった。と、ふり返るのである。あなたはそんな「場」をもってしまったことはないだろうか？ ……もうこういってもいいだろう、芝居神が降りてきていたのだと。わたしはこう綴っていて真面目なのか、不真面目なのかわからない。できるならこんな言葉を持ち出したくはない。稚拙な観念論として片付けたい。芝居神などといってしまうと、そこに稽古や演技への思いといったものを再構築する手立てがなくなってしまうからである。が、一観客たらんとしていたわたしは、至福だったことは間違いないのである。たぶん二つの側面を、観るという側面と行為の側面からそれぞれ迫らなければならないことを、一つとして語っているのだということは容易いのであるが……。<br />
　もう一つ逸話がある。手早く片付けよう。これは、あなたが望むのであれば、わたしはそれを用意することができる。<br />
　わたしたちは野外で、テント公演をこれまで多く行ってきた。いまでは定期的というわけには行かなくなった。大きさはほぼW8000×D16000×H5000で、鉄骨組みである。このなかに舞台と客席を仕込む。本体の鉄骨は二三時間で組みあがるものである。ここまではなんでもない。設置スペースに小屋を思わせる基礎工事なみの屋根を含めた鉄柱が立ち上がるだけである。工事現場の趣である。これを厚手の一枚物の帆布で覆う。ここで世界は一変する。単なる空き地や、公園、広場であったものが「場」となる。まだ間口と奥に帆布の垂れていない吹き抜けの、なにもないガランとしたその中に入ってみるといい。何かが息づきはじめたのを感じることができる。陽光がさえぎられたからではない。空気が淀むからだけではない。帆布が、中沢新一の『精霊の王』（2003年刊・講談社）に倣えば、「胞衣(えな)」となったのである。わたしたちはこれを「力場」の原初形態と呼ぶ。演技を方法化するための「場」であるのだ。したがって、わたしたちの演技論は力場の論理として登場することになる。<br />
　逸話にかえるなら、場は体感できるものとしてある。あなたはなにも考えずにそこに立つだけでいい。あなたはあなたの昂ぶりを体感するはずである。さて、これ以上わたしのレベルであれやこれやと逸話を数に頼って用意してもその信憑性がいわれそうなのも出てきそうである。とりあえず自分の周りからなりふり構わず、少しでも思いを馳せるために、相似性や類似性の匂いをきき、それを思いつくままに他意なくかき集めようとしたにすぎない。視点を変えれば、当然別の語り口や位置付けが開けるであろうが、まずはここに寄りかかるまでである。<br />
　つづいてこの思惑を、安易だがよく知られているところで一般化すれば、柳田國男（1875-1962）の『遠野物語』で紹介されている座敷童子になる。<br />
</p>
<blockquote >
<font size="-1"> 
17　旧家にはザシキワラシという神のすみたもう家少なからず。この神は多く十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。（略）この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。（柳田國男全集 ４ ちくま文庫）
</font>
</blockquote >
<p>　柳田國男が1910年（明治43年）に発表した説話集であり、それを民間伝承とするなら、ここにはザシキワラシを成立させるための文化性や感性が、まだ社会や個人のなかに共同性として息吹いていたということになるだろう。では現代はどうなのだということになるが、それは前述のように色眼鏡をかければいいということになる。なにせわたしにも言霊が降りるほどなのであるから、そう大きな隔たりはない。<br />
　次は芸能のほうに近づいてみよう。蹴聖といわれた藤原成通（1097-1162）の『成通卿口伝日記』にはつぎの一文がある。藤原成通は生涯、七千日にわたって蹴鞠を行い、そのうち二千日は願を立て、千日目満願の中日にはお客を招き宴を催したとある。僧侶にもにた一つの行といえそうだが、宴も終わり客の帰ったあと、藤原成通が日記を書こうとしたとき、供え物をしていた祭壇のほうで物音がした。<br />
</p>
<blockquote >
<font size="-1">
奇異に思われて目を凝らしてみると、三四歳ばかりの童子が三人、鞠を昇き上げ立っていた。顔こそ人ながら、胴体や手は猿さながらと見えた。あまり不思議なる事ゆえ、つい荒々しく「何者ぞ」と問うたのであるが、何と「御鞠の精にござりまする」と答えるではないか。（日本古典文学コレクション 1 『奇談』から） 
</font>
</blockquote >
<p>　ここに現れた、蹴鞠の精霊はそれぞれ「春陽花、夏安林、秋園」といい、林の木々に住んでいるらしい。蹴鞠のとき名を呼べば、さらなる蹴鞠の精進を助けるという。鞠を地に落とさないということだろう。ちなみに蹴鞠の掛声であるヤウ、アリ、オウは蹴鞠の精霊名にちなんでいるということである。蹴鞠の精霊を呼んでいるのだ。また『続群書類従 19』を読むと驚くほどの決め事があり、単なる宮廷の競技といえそうにないようである。<br />
　次に進むために、これ以上の逸話を用意するなら、わたしはもう孫引きに頼らざるを得なくなる。また孫引きしても差異はないように思われる。要はこうして多くの精霊や、わたしたちの理解の外にあるものが登場する、ということになるだろう。さて、そしてこれらの精霊が登場する「場」を世阿弥と金春禅竹は「後戸」と呼んだのである、と付け加えなければならない。<br />
　「後戸」について服部幸雄(1932-2007)は『宿神論』の「第一章 後戸の神」で世阿弥と金春禅竹の「後戸」を示しながら、次のように述べている。<br />
</p>
<blockquote >
<font size="-1">
　さきに掲げた『明宿集』の記事では、なぜ後戸に廻って芸能を行ったのか、その理由づけがまったく欠落しているのに注意したい。つまり、この起源伝説にとって、外道を「他のある場所」へ引きつけておき、そのすきに供養を行ったのだという体の説話上の理由づけは実はその本質ではないのであって、他の場所でない、「後戸」で猿楽の芸が行われるという一点こそが重要だったと考えられたのである。鍵は、「後戸」にあったのだと思う。<br />
　従来この問題について何らかの考えを述べた文章を見ていない。つまり、「後戸」ということに特別な意味を認めようとする考えは皆無であったように思う。（『宿神論　--日本芸能民信仰の研究』 岩波書店） 
</font>
</blockquote >
<p>　このように服部幸雄が書いたのは『宿神論』の初出一覧によると1973年の雑誌である。このあと、1974年〜1975年に「第二章 宿神論」が同じく雑誌に分載されたことがわかる。そして、わたしたちが一冊の本として『宿神論』を読むことができるようになったのが、今年(2009年)の一月下旬である。没後の発刊となったわけであるが、この刊行までに要した三十五年間が何であったのかは、よくわからない。発刊を託された編者による「後記」を読むと、その経緯が服部幸雄の手紙として紹介されている。それは「（発表以降--拙者注）この分野の学問が当初の予想以上の広がりを見せたので、どのような形にして一冊の本にするのが良心的でよいのか、迷いに迷っていたからです。そして著者として、何としても補う部分を、もう一章書き加えたいと考えるようになったからです」ということであるが、わたしには「当初の予想以上の広がり」を見通す能力がない。『宿神論』には「もう一章書き加えたい」とした未発表の遺稿が含まれており、それによると様々な分野での広がりを見せたことがわかる。さらに現代演劇（シツコイようであるが、そういうものがあるとして、と読んで頂きたい。以降同）の側からのなんらのアプローチもなかったことがわかるのである。<br />
　だからといってわたしたちはここに留まるわけにはいかない。ここまで新熊野神事猿楽から出発し、「翁」の位置を求めて、世阿弥と金春禅竹に導かれながら、秦河勝や後戸に視線を投げてきた。それはなぜ「後戸」が問題となるのかという問いかけであった。しかし秦河勝から四十数代後の金春禅竹も世阿弥も「後戸」を明言することはない。それは「なぜ後戸に廻って芸能を行ったのか、その理由づけがまったく欠落しているのに注意したい」という服部幸雄の文言になる。わたしにはこれらの展開を舞台という表現の磁場を離れて位置付ける力量はない。であるが、そこで、そこでしか予測できないということはある。そうしてここまで予断してきたことは、秦河勝から四十数代後という時間の隔たりが、「後戸」を無化したのだ、ということである。つまり「翁」一点に踏みとどまれば、「後戸」は世阿弥と金春禅竹の「翁」の模索のための一つである、ということになるだろう。四十数代後という現状から見れば、金春禅竹は、「翁」は秦河勝でありその本質は宿神である、といわざるを得ないのである。なぜか？それは、四十数代後の現状とは、六十六番ではなく翁付五番立となったということである。六十六番から三十三番となり、翁付五番立となるとは、やがて五番立、三番立となり一番となることは容易に想像できる。猿楽が申楽となり能楽となることであるが、それは芸能が表現として自立するということである。わたしには世阿弥の『風姿花伝』とはそれを論理づけるものだというしかない。<br />
　ここには明らかに逆説がある。「後戸」の無化は自然に行われるのではない。猿楽がそれを望むからこそ、時間が手助けできたのである。この変遷の中で『風姿花伝』を『風姿花伝』として自立させることは「翁」の解体を意味することとなる。換言すれば、芸能から政治性や宗教性を剥奪していくことである。しかし残念ながら表現が表現として抽象的に自立しぬくことはない。あるとすれば、舞台を芸術と呼ぶときである。能が芸術であれば、わたしにはなにも言うことがない。人前で何かをするという行為は、ついに人前に出て行く個的な表現衝動を消し去ることがない。ないからこそそれは舞台なのだ。この前提であっても演技論は抽象性を求める。求めることによって見られるという磁場から、見返すという地平に転位するのである。しかしそこは抽象的なるものではない。このジレンマ、自己矛盾の結晶が、世阿弥と金春禅竹の「翁」でありまだ見ぬ「後戸」であると射程せざるを得ないのである。論理はこのように求めるがゆえに、求めるものを打ち消してすすまざるを得ない場合はある。<br />
　もう少し現場性にもどろう。例えば、前章でふれた能『井筒』ではシテ・在原業平の妻が亡霊として登場する。このとき、形がすべてを解決するというのが、仮設であった。これは、世阿弥は『風姿花伝』で解決できるとするのが、論理であろうとした。ではその『風姿花伝』で何ゆえ「第四 神儀云」や「後戸」で補完せざるを得ないのかという疑問は残ったままである。つまり世阿弥は「形がすべてを解決する」とは論理性としては仮設するが、こぼれ落ちるものがあるとしたのである、ということになる。これを、「翁」の原理で補完できるのではないかと、企んだといえる。しかし、世阿弥は『風姿花伝』で、「なぜ後戸に廻って芸能を行ったのか、その理由づけがまったく欠落している」からには、当たりをつけたのである、ということになっている。当然さらに疑問は、なぜ当たりをつけることができたのかという段階にすすむ。ここではじめてわたしたちは、服部幸雄が書いた『宿神論』に分け入ることができるだろう。それは「秦河勝」、「後戸」、「魔多羅神」により分け入っていくことになるだろう。そこからどこまで突き進まなければならないのか、今はまだわからない。<br />
</p>
<!-- /more -->
<p>
</p>
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=251">
<title>翁と秦河勝　　---その3　世阿弥と金春禅竹</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=251</link>
<dc:date>2009-03-19T11:16:25+0900</dc:date>
<description>
　黒澤明の映画『七人の侍』に、記憶がさだかではないが、村人たちと侍の田植えシーンがあったと思う。苗は空を舞い随所に投げられる。稲が植えられていく。一方では鳴り物入りで、畦で豊穣を祈念する田植え唄が歌われていた。やがて実りの秋を迎えるわけだ...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　黒澤明の映画『七人の侍』に、記憶がさだかではないが、村人たちと侍の田植えシーンがあったと思う。苗は空を舞い随所に投げられる。稲が植えられていく。一方では鳴り物入りで、畦で豊穣を祈念する田植え唄が歌われていた。やがて実りの秋を迎えるわけだから、それを狙って野武士たちは村を襲ってくるのだから、村を守る死闘はまだのはずだ。華やいでいたように思う。いや、戦いが終わったあとのフィナーレだったかもしれない。これがわたしの拙い田楽の一つのイメージとしてある。田舞いといったらいいのかもしれない。不確かな、この原型のないものから歴史上にあったであろう田楽を考えていくのだが、それはなかなか明確に像を結ばない。村の祭礼などで儀式めいた魔事退散などとしての田楽もあったのであろう。各戸の祝言などで家内安全を謡ったのかもしれない。<br />
　この田楽や猿楽のことを折口信夫（1887〜1953）は『翁の発生』で次のように書いている。<br />
　まず「日本人の国家以前から常世神（トコヨガミ）といふ神の信仰は、常世人として海の彼方の他界から来る」というのがはじめである。これが折口信夫の「マレビト」であるとしていいのだろうが、このマレビトは「初めは、初春に来るものと信じられてゐた」が、四季折々の節目に訪れるようになり、やがて山中にすみつき山人となり、山人から山の神となる。「常世の国を、山中に想像するやうになつたのは、海岸の民が、山地に移住したから」ということだが、この山の神が里に下りてくるのが、翁の原型である、と『翁の発生』で論述している。山から現れ、かよっていたこの山の神は、やがて里の神社にすみつき神となった。ここには日本人の狩猟時代から農耕時代へと移った時間の幅があるのだろう。こうして神事は「翁舞」である。いうまでもなく「翁面」は御神体として振る舞い、翁舞は鎮魂や五穀豊穣の祭りの儀式として行われた。この神事が呪師猿楽の呪術性を経て翁猿楽となっていくのだろう。<br />
　これらはわたしがここでする『翁の発生』の都合のいい概略であるかもしれないが、さらにこれを折口信夫は『能楽に於ける「わき」の意義・「翁の発生」の終篇』では次のようにまとめている。<br />
(つづきは右下「もっと読む」をクリックです)<br />
<br />
</p>
<!-- more -->
<p>
<blockquote >
<font size="-1">
 猿楽の先輩芸は、田楽であつた。田楽は、五月の田遊びから出てゐる。田遊びに呪師（ノロンジ）系統の芸能が加味し、更に、念仏系統のものが加はつて、田楽が出来たのであつた。此田楽には、それの副演出として、田楽能が行はれた。後世では、田楽と言へば、舞ふ事と奇術・軽業（カルワザ）様のものとだけが、記憶せられる様になつたけれども、田楽での主なるものは、田楽能だつたのである。さうして、此わき芸を勤めたものが猿楽であつた。（折口信夫全集2・中公文庫）<br />
</font>
</blockquote >
　さらに他の箇所で「猿楽の基礎は、翁であるが、此「翁」は、もとは田楽附属の芸であつた。それが幾つもの副演出を重ねて行くことによつて、遂に猿楽を分離せねばならぬほどにまで、発達したのである」とする。
　どうもわたしには田楽から猿楽の流れを直線性として位置づけているように思うのだが、この系統発生はここでは置いておける。この後、奈良・鎌倉時代を過ぎ室町時代となり、寺社などの専属となり、職業的な猿楽能となった大和猿楽の翁は前章になるが、ここではまだ奈良・鎌倉時代に踏みとどまり、翁のことを違う視点からもう少し拡げてみたいと思う。<br />
　世阿弥は『風姿花伝』の「序」を次のように書き始めている。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　それ、申樂延年の事態、その源を尋ぬるに、あるひは佛在所より起り、あるひは神代より傳はるといへども、時移り、代隔りぬれば、その風を学ぶ力及び難し。近來、萬人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快樂のため、六十六番の遊宴をなして、申樂と號せしより以來、代々の、風月の景を假りて、この遊びの媒とせり。その後、かの河勝の遠孫、この藝を相續ぎて、春日・日吉の神事に從ふ事、今に盛んなり。（『風姿花伝』世阿弥・岩波文庫） 
</font>
</blockquote >
　猿楽の始祖は「秦河勝」であると世阿弥はここで明言しているが、室町時代から約三百年前の飛鳥・奈良時代の国事であったのだろう遊宴を持ち出し、猿楽を権威付けようとしているのだろうか。この箇所だけであるなら、そうともいえるが、この『風姿花伝』は一子相伝の秘書であった。事実、1909年(明治四十二）に吉田東伍によって『世阿弥十六部集』は校刊され、およそ五百年の眠りから覚めたのだから、衆目にさらす意図はなかったといえる。さらに「秦河勝（はだのかうかつ）」とは？『日本書紀』にも登場するこの秦河勝という人物は何者なのか？<br />
　これと同様なことが『風姿花伝』の「第四　神儀云」にもある。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　一、申樂、神代の始まりといふは、天照大神、天の岩戸に籠り給ひし時、天下常闇になりしに、八百萬の神達、天の香具山に集り、大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男を始め給ふ。中にも、天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を附けて、聲を挙げ、火處焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。國土また明白たり。神たちの御面、白かりけり。その時の御遊び、申樂の始めと云々。委しくは口傳にあるべし。<br />
　一、佛在所には、須達長者、祇園精舍を建てて供養の時、釋迦如来、御説法ありしに、題婆､一萬人の外道を伴い､木の枝､篠の葉に幣を附けて、踊り叫めば、御供養宣べ難かりしに､佛､舎利弗に御目を加へ給へば、佛力を受け、御後戸にて、鼓・笙鼓を調へ、阿難の才覺・舎利弗の智恵・富樓那の辨舌六十六番の物まねをし給へば、外道､笛・鼓の音を聞きて、後戸に集りこれを見て静まりぬ。その隙に、如來､供養を宣べ給へり。それより、天竺にこの道は始まるなり。<br />
　一、日本國においては、欽明天皇の御宇に、大和國泊瀬の河に洪水の折節､河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉の鳥居の邊にて、雲客､この壺を取る。中にみどり子あり。貌柔和にして、玉の如し。これ、降人なるが故に、内裏に奏聞す。その夜､帝の御夢に、みどり子の云はく、「我はこれ、大國秦始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、今現在す」と云ふ。帝、奇特に思し召し､殿上に召さる。成人に從ひて、才智人に越え､年十五にて大臣の位に昇り､秦の姓を下さるる。「秦」と云ふ文字、「はだ」なるが故に、秦河勝これなり。<br />
　上宮太子、天下少し障ありし時､神代・佛在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを、かの河勝に仰せて、同じく六十六番の面を御作にて、河勝に興へ給ふ。橘の内裏､紫宸殿にて、これを勤ず。天下治まり､國静かなり。上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて､旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に､申樂と名附く。樂を申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。（『風姿花伝』世阿弥・岩波文庫）<br />
</font>
</blockquote >
　ここでは『風姿花伝』「序」の「佛在所より起り、あるひは神代より傳はる」が内容をもって具体的となっている。天岩戸の神話はいいとして、次の釈迦が弟子の「舎利弗」に目配せして、説法の邪魔をする「一萬人の外道」を「後戸」に集めさせた。そこで猿楽をみせた。この間に説法はうまくいき、ここからインドの猿楽は始まった。これは世阿弥の創作だといわれる。<br />
　さて「後戸」とはなんだろうか？<br />
　秦河勝のくだりは秦河勝の伝承とともに「六十六番の遊宴」は聖徳太子の命により紫宸殿で行ったと具体的になっている。このとき聖徳太子は「神楽なりしを、神といふ文字の偏を除けて､旁を残し」、「神」を「申」とした。世阿弥は猿楽という語を使いたくなく申楽にこだわりを持っているということがわかるが、なぜそうなのかは判らない。散楽を思い起こすからなのかも知れないが、これは上記からは判らない。<br />
　世阿弥は「序」では猿楽の縁起をさらりと流している。しかしこの「第四　神儀云」では縁起を肉付けしている。現代のわたしたちからすれば他愛もない逸話に見える。であるが、世阿弥は「序」では不足であり、「第四　神儀云」でそれを明確にしようとしたのであろう。だが、それはわたしたちには、やはり逸話にみえる。いってしまえば捏造を施して、何を射程しようとしたのか？ここでは権威付けという思惑は消えている。何かを指し示そうとしたと読むのが順当であろう。明確でないか、または歴史性のなかに散逸しており、逸話めいたものによってしか、絡みとる術はなかったということであろうか。<br />
　金春禅竹（1405-1471）の『明宿集』にも関連する部位がある。むしろ詳細である。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
一、秦河勝ノ事。太子ノ御目録ニ記シ給フ儀ニ云。抑、コノ河勝ハ、昔推古天皇ノ御宇ニ、泊瀬川ニ洪水出ヅ。水上ヨリ一壷ノ壷流レ下ル。人不審ヲナシテ、磯城島ノアタリニテ取リ上ゲ見レバ、中ニ只生レタル子アリ。スナワチ抱キ取ルニ、人ニ托シテ云、「我ハコレ、太唐秦ノ始皇帝ノ再誕ナリ。日本ニ値遇アテ、今スデニ来タレリ。急ギテ朝ニ奏スベシ」ト。ヤガテ此由奏聞ス。御門奇特ニ叡覧アテ、君辺ニ置カレテ、成長ニ従ヒ、才智世ニスグレ、賢臣・忠臣ノ誉レヲ受ク。（略）カノ河勝ニ猿楽ノ業ヲ仰下サレテ、橘ノ内裏紫宸殿ニテ翁ヲ舞ヒ初ム。上ニ記セルゴトシ。<br />
　然ラバ、コノ因縁・結縁ヲ以テ思フニ、カノ秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑イナシ。ソノユエハ、秦ノ始皇ハ漢土ノ御門、王ワ上ニ記セルガゴトク翁ニテマシマス。河勝マタ始皇ノ再誕ト名ノリ給エバ、翁ニテマシマス事疑ヒナキ所ナリ、サテコソ、コノ道ヲモ興シ給ヘ。（『世阿弥　禅竹』日本思想体系24) ）
</font>
</blockquote >
　秦河勝は聖徳太子一族の滅亡の後に「空舟ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ」と一見後日談のように思われるが、むしろ金春禅竹にとってはこちらのほうが問題であったであろう。さらに秦河勝には三人の子があり、そのうちの一人が猿楽を伝え「当座円満井金春太夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ」となる。後の章では、秦河勝が六十六番の猿楽を舞った際、聖徳太子から賜った面も伝わっているという。内容は世阿弥の「神儀云」と同じである。<br />
　この金春禅竹の1964年に発見され、わたしたちの前にある『明宿集』は、秦河勝を翁であると位置付け、それは「宿神」であると断定する。この意味で『明宿集』は宿神論である。これでもかとすべてを宿神化することによって翁を抽象化する。わたしは金春禅竹が、翁は「公」の「羽」であるとまでして、貧欲に翁を外化し、それらを宿神として一元化するその迫力に圧倒されざるをえないのである。感動さえおぼえるのはわたしだけであろうか。そしてまた、金春禅竹の『明宿集』と世阿弥の『風姿花伝』・「神儀云」は何だというのだろうか？思わずそう問いかけてしまうのである。<br />
　結論を先走るわけではないが、ここまで、こうして前章から眺めてくることによって立ち上がってくる像を、仮説めいてここに綴っておくのも悪くはないだろう。この拙文ですべてのことに切りがつく、ということにはならないのだから。<br />
　やはり、翁の位置付けが問題ではないだろう。世阿弥も金春禅竹も翁の全化をあたかも傍若無人につきすすんでいるかのようにみえる。翁を位置付けることが問題であるなら、それは思想性の問題となり、論的な解明に突き進むしかない。そんなとこではついに「演技とは思想性の問題である」という他愛もない話になる。だが、演技のまえで思想性が根拠になることはない。それは美しい誤解としてでもである。それでもなお、金春禅竹の『明宿集』と世阿弥の「神儀云」を根拠論とするなら、わたしたちは、田楽や猿楽などが置かれていた社会的な賤民性や政治的な被差別性を問題とせざるをえないことになるだろう。やはり、世阿弥の「神儀云」や金春禅竹の『明宿集』はこれらをすでに突き抜けている。ハレやケ、聖や穢、貴や俗、白式尉や黒式尉……このような芸能の文化性に絡みとられることなく、静に「代隔りぬれば、その風を学ぶ力及び難し」といわざるをえないのである。<br />
　翁はすでに、世阿弥や金春禅竹の前では、十分に抽象的であるのだ。このおかれている抽象性を「その風を学ぶ力及び難し」ゆえ突き崩すことが問題であるのだ。その結果、一敗地に塗れ、もう一つの抽象性に辿り着こうともである。<br />
　このような位置に立てば、翁とは一つの世界定めである、といえるかもしれない。翁による世界の私有化といってもいい。ここがこうであることを逸脱しなければならない。ここはどこでもないこことして、定めなければならない。たとえば埴谷雄高のように「自然が自然的に滅ぶ瞬間」と何ほどのことかは、多々いっていけるだろうが、やはり志向されるのはいかほどかの具体性である。ここに世阿弥も金春禅竹も翁の内実を架設しようと佇んでいるのである。<br />
　世阿弥の作といわれる能『井筒』では、南都（奈良）の在原寺に立ち寄ったワキ・ 旅の僧の前に、前シテとして里の女が現れる。紀有常の娘であり在原業平の妻であると「はずかしながら、われなり」とつげて井戸の影に消える。すでに霊である。ふたたび後シテ・在原業平の妻（霊）は、夜がふけて在原業平の形見である冠や直衣を身につけてあらわれ、追憶の中で舞う。井筒に近づく。<br />
　
<blockquote >
<font size="-1">
シテ　筒井筒、<br />
地　　筒井筒にかけし、<br />
シテ　まろが丈、<br />
地　　生にけらしな、<br />
シテ　老いにけるぞや、<br />
地　　さながら見えし、昔男の、冠直衣は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影<br />
（『謡曲集 上』から　日本古典文学大系・岩波書店）<br />
</font>
</blockquote >
　世阿弥はここで「左へ大きく回って大小前へ行き、井筒のそばへ出て薄をかき分けてのぞきこむ」と指示を書き付けている。現代のわたしたちに倣えば、それはト書きである。能の、けっしていい観客でないわたしが、単なる門外漢の素人のわたしがいうしかないが、この「薄をかき分けてのぞきこむ」の凝固と間に、能『井筒』のすべてはある。それまでの一時間半以上の舞台の時間はここに結晶する。このとき在原業平の妻は在原業平であるからだ。観客席でわたしたちは、井筒の下の水面に在原業平をみるかもしれない。あるいはシテの面が在原業平に変容する瞬間に立ち会うのかもしれない。あるいはまた、シテ・在原業平の妻の面に悠久の翳りの一瞬のきらめきを見るかもしれない。そのようにして待つという悠久は、悠久であることができるからだ。<br />
　さらに独断と偏見を続けるしかない。このような能『井筒』への接近が可能なのか、あるいは一般論であるのか、それには自信がない。が、ここに仮設されているのは現実と虚構という二元的な相対論である、とするのはわたしたちの現実感でしかない。しかたないのでいってしまうが、現代演劇というものがあるとして、そのドラマツルギーはこれを、現実と虚構という二元論で語るだろう。ワキ・ 旅の僧の場への住み着き方が、シテ・在原業平の妻の立ち振る舞いの内実を規定する。もちろん、シテ・在原業平の妻の立ち振る舞い方が大いに問題であるが、根底的にはシテ・在原業平の妻とワキ・ 旅の僧の関係性のリアリティーが世界をどこへでも引っ張っていく。舞台は二人の俳優の演技の質に規定される。観客は世界を与えられるものであるという立場を、ついに拒否することはできない。このような整理の仕方がなにも意味しないのはわかっているが、ここでは能『井筒』の位置を浮き上がらせるための道順である。<br />
　わたしは今ここでリアリティーという言葉を出したが、能『井筒』ではそんなものは問題となっていない。リアリティーとはわたしたちの想像力を規定する概念であるが、そんなものを期待して、つまり現実感をもった想像力の突き崩しというドラマを期待して能『井筒』におもむくなら、それは退屈そのものでしかないだろう。そこには一次的な表現はないのだ。<br />
　能のシテ・在原業平の妻は構えにより形を行為する。ワキ・ 旅の僧も同じである。すり足である歩行を生きるといえばいいのだろう。ここにあるのは形という形式である。この全体が演技そのものであるということができるだろう。即自的行為が、表現として結実することが求められてはいない。ヘーゲル弁証法ににて即自は対自のなかに求められている。即自的行為としての生きるということが、形として成就することが企まれているのである。直接性は拒否される。作業仮設は構造化されているのだ。こうして在原業平の妻という亡霊や、修羅、物の怪であろうと、形というものを絶対化することによって射程することができるだろう。これを能の芸術性と呼ぶのかどうか知らないが、すべてはわたしたち観客に預けられているともいえる。リアリティーという想像力はわたしたち観客の側にあるのだ。いまのわたしは、このように綴るしかない。具体的には、次のようなことからも予断される。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　さて身体表現の歴史からいうと発祥当時と寸分たがわず同じではないにしても、能楽は六〇〇年前の振付けの原理を現在でももちつづけながら発展しています。ですから、いくら才能豊かな能楽師でも、心理描写にのっとって、まるでシェークスピア劇のように振付(型)を自由に変更することはひかえなければなりません。。（『能楽への招待』梅若猶彦・岩波新書） 
</font>
</blockquote >
　やはりお断りしておきたいが、わたしにはそう他意はない。たとえば能『井筒』で、荒寺の在原寺にシテ・在原業平の妻が何の予見もなしに亡霊として現れるとき、この事態をどう了解できるのかということだけである。了解する必要はないのだと、わたしが一観客である場合は、上記のようになるだろう。シテ・在原業平の妻を舞うものは、十全に形を生きるのだろう。が、ことは企む側なのである。シテ・在原業平の妻を舞うものに対して、強引に「形を生きる」といったところで、すべての始末までを観客に預けることはできないのだ、というあきれるほど真っ当な自問に突き動かされているだけである。<br />
　ずいぶんの回り道となったが、この能『井筒』は翁付五番立として、五番立のなかにあったのだろう。能『井筒』が夢幻能であるなら、何番で上演されたのか、序破急としてどう組まれるのかはわたしにはわからない。そしてここまできてもなぜ翁は五番立の外なのかということは、詳らかではない。それは世阿弥の『風姿花伝』が演技論としてあり、能曲の舞台を支えるものであり、わたしはここで「形」としてその一つを抜き出してしまったのだが、であるなら、五番立の序破急を模索するだけで十分ではないのだろうか、という疑問と重なっている。短絡すれば、十分でないから翁がある、あるいは「始末までを観客に預けることはできない」から翁がある、というのがわたしの脈絡である。しかし、これはなにも言っていないに等しい。翁は五番立を相対化するものであると脈絡としてはなるが、上記の「翁とは一つの世界定めである、といえるかもしれない。翁による世界の私有化といってもいい」から歩一歩を進めてはいない。<br />
　ぼつぼつ世阿弥と金春禅竹をはなれて次節に行くことになるが、最後に、わたしは『花鏡』の「離見の見」について書きとめておくしかない。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
見所より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、則、見所同心の見なり。其時は、我姿を見得する也。我姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれ共、目前左右までを見れども、後姿をばいまだ知らず。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまえず。さるほどに、離見の見にて、見所同見と成りて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。是則、「心を後ろに置く」にてあらずや。(「花鏡」から　『世阿弥　禅竹』日本思想体系24) 
</font>
</blockquote >
　できるなら、構え方の隠喩によるレトリックだとして通りすぎたい。だが「心を後ろに置く」を、世阿弥のアフォリズムとしてしまうには、引っかかるのだ。当然ながら、どのような手続きや作業が必要だとは、世阿弥は述べてはいない。決意をもって己を相対化してがんばれ、とするにはあまりにも読む側に芸がないではないか。間の問題であり、呼吸の置き所だとするには飛びぬけて抽象的となる。<br />
　舞台でなにかで「ある」ことを、まず緊張感と集中力を手立てとしてするなら、この「離見の見」には太刀打ちできない。もう一つの「緊張感と集中力」を要求しているわけであるから、先にあってしまう「緊張感と集中力」は「緊張感と集中力」ではないとなってしまうだろう。つまり「緊張感と集中力」は一元論であり、「離見の見」はニ言論だとする呪縛から逃げられない。もちろんだから「離見の見」であるのだが。思わず前頭葉に、反・二極一合などという新語をシラーと捏造したいところだ。幽体離脱、臨死体験……<br />
　閑話休題。本章の脈絡からこの「離見の見」をみていきたいのであった。<br />
　さてわたしは、夢幻を形という形式の抽象性で可能ではないのか、とした。ここでの「離見の見」は、この形そのものを無化するところで仮設しうるのではないかと思い描かざるをえない。形を十全に生きようとするものが、それを内的な制約として消し去るとき、真に形は形である。形を相対化したのである。ここが「離見の見」の地平なのだが、この地平はわたしたちが日常呼吸をするとき、息をすることを意識しないという現象を、引き合いに出すことができる。ここは「離見の見」の鳥羽口である。五十メートルの全力疾走でわたしたちは、いやがうえにもゼーゼーと荒く息をする。呼吸動作を意識する。日常の呼吸動作が脳信号の生命維持レベルで無意識化されているのだということができるとすれば、このゼーゼーは臓器機能の要求が上乗せされた作業結果となるだろう。身体がここでは意識できるのである。持ってまわった言い方をしているが、やがて臓器機能の要求は消え、呼吸は意識の外になる。ここが「離見の見」である。身体性が無化されたのである。実態としてわたしたちは日常生活で、呼吸から自由であるということができる。こうして「離見の見」を構え方の問題から、身体性の問題としても仮設できるのではないだろうか？<br />
　ここまでわたしは「構え方」を意識の問題として、あるいは身体の問題として明確に識別して使ってこなかったが、すでに形とは身体性の問題である。さらに危惧するのは、上記では「離見の見」の鳥羽口と無化されたうえでの「離見の見」が日常性としては同一地平であることである。本質論からすればその識別は必要ないのであるが、この「離見の見」が方法として射程されるとき、検証が必要となるだろう。そのために世阿弥はここに「心を後ろに置く」という概念を持ち出すのである。これを概念と規定するからには、わたしの言葉で明確に言い切らなければならないが、あるいは力及ばず、様々な囲い込みをするしかないのであるが、それはこのような側面性からのアプローチではなく、正面からの「離見の見」論を別稿に起こすしかない。もちろんうまくいくかどうかも判らない。今いえることはこの「心を後ろに置く」ということと、ここまでたどってきた「翁」の位置はそう違わないであろう、ということだけである。<br />
　さて、この本章、上記で置いて、なおかつばら撒いてきた秦河勝、後戸、宿神の次節に移って行きたい。<br />
</p>
<!-- /more -->

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=247">
<title>翁と河勝　　---その2　翁式三番</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=247</link>
<dc:date>2009-03-10T14:51:23+0900</dc:date>
<description>
　「翁」とは？
　どうもこの問いなしには、いくばくかの明証性なしには次がつづかないと思われる。だがそれは時間のなかで、歴史に埋没して明確にはならない、というのが現状だろう。
　であるなら、いや本当は、わからないというそのことが大きな問いで...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　「翁」とは？<br />
　どうもこの問いなしには、いくばくかの明証性なしには次がつづかないと思われる。だがそれは時間のなかで、歴史に埋没して明確にはならない、というのが現状だろう。<br />
　であるなら、いや本当は、わからないというそのことが大きな問いであるのではないだろうか。それともわからないのでいいのか。そのうえでわたしたちは猿楽の翁、田楽の翁、能の翁などを持っているのか？この問いと重なっている。<br />
　時間がみえないのか？たかが数百年前のことに、肝心なことになるとなぜ諦めざるを得ないのか？文化といわれるものがどこかで覆り、想いが及ばないのだろうか？いずれにしろわたしたちは室町時代にこのまま留まっているわけにはいかなくなくなってきたのだろう。つぎの世阿弥の言葉に移り、さらなる足場をひろげてみよう。<br />
　世阿弥は『風姿花伝』のなかでも特異な章と思われる、少々脈絡の異なった「第四 神儀云」で次のように語っている。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　一、平の城にしては、村上天皇の御宇に昔の上宮太子の御筆の申樂延年の記を叡覧あるに、先づ、神代、佛在所の始まり、月氏・震旦・日域に伝はる狂言綺語をもて、讃佛轉法輪の因縁を守り、魔縁を退けて、福祐を招く、申樂舞を奏すれば、國穏やかに、民静に、壽命長遠なりと、太子の御筆あらたなるによりて、村上天皇、申楽をもて天下の御祈祷たるべしとて、その比、かの河勝、この申樂の藝を傳ふる遠孫、秦氏安なり。六十六番の申樂を紫宸殿にて仕る。その比、紀權守と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が妹聟なり。これをも相伴ひて、申樂をす。<br />
　その後、六十六番までは勤め難しとして、その中を選びて、稲經翁、代經翁三番申楽、父助これ三つを定む。今の代の式三番これなり。（『風姿花伝』世阿弥・岩波文庫）
</font>
</blockquote >
(つづきは右下「もっと読む」をクリックです)<br />
<br />
<!-- more -->
　平安京で村上天皇が聖徳太子の古事にならって、秦氏安と紀權守が紫宸殿で六十六番の申楽を演じた。その後、この六十六番は長すぎるので稲経翁、代経翁、父助という三人の翁が出てくる、式三番となったということなのだが、ここでいう「六十六番までは勤め難しとして」が、単に長すぎるので端折った、ということなのかどうかは判らない。紫宸殿での六十六番の申楽であるから、公的な儀式が三番に抽象化されたということだろう。この抽象化は何を意味するのだろうか。興行的要請や時間的な問題として片付けることが、はたしてできるのだろうか。世阿弥の思惑を離れてそこにはなにも無いといいきっていいのだろうか？なにか見過ごしてしまうということにはならないのだろうか？残念ながら、いまのわたしはそこに踏みとどまることはできない。行き過ぎがたい思いがうかぶだけである。<br />
　こうして能楽の翁は三番になったのだが、わたしがDVD（Digital Versatile Disk）やテレビ番組でみた翁はそれぞれ構成が違っていた。流派によって違うのだが、あらかた千歳の演能、翁の舞、狂言方の三番叟。舞を中心にみれば、千歳の舞、翁の舞、翁・白式尉の舞、三番叟・揉之段の舞、三番叟（黒式尉）・鈴之段の舞となるだろう。総じて天下安寧、五穀豊穣の言祝ぎということは感じられる。<br />
　理解不能なのは、ここでは金剛流謡曲を引くが、
<blockquote >
<font size="-1">
太夫  &nbsp; &nbsp; とう〜たらり〜ら。たらりあがりらゝりどう<br />  
地  &nbsp;&nbsp;&nbsp; &nbsp; ちりやたらり〜ら。たらりあがりらゝりどう<br />  
太夫  &nbsp; &nbsp; ところ千代までおはしませ <br /> 
地  &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 我らも千秋さむらはう <br /> 
太夫  &nbsp; &nbsp; 鶴と亀との齢にて<br />  
地  &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 福寿心にまかせたり <br /> 
太夫  &nbsp; &nbsp; とう〜たらりたらりら<br />  
地  &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; ちりやたらり〜ら。たらりあがりらゝりとう<br />  
千歳  &nbsp; &nbsp; 鳴ハ瀧の水。〜日ハ照るとも <br /> 
地  &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 絶えずとうたりありうどう〜どう  <br />
千歳  &nbsp; &nbsp; 絶えずとうたり〜 <br /> 
</font>
</blockquote >
　の「とう〜たらり〜ら。たらりあがりらゝりどう」である。この呪文めいたもの言いはわからない。わたしには思いが及ばないのだが、本田安次はその著書『翁そのほか--能及び狂言考之弐--』（明善堂書店）で、この「とう〜たらり〜ら云々」は法華五部九巻書の「千里也多楽里　多楽有楽　多楽有楽　我利利有　百百百　多楽里　多楽有楽（チリヤタラリ　タラアリヤラ　タラアリヤラ　ガリリアリヤ　トウトウトウ　タラリ　タラアリヤラ）」 だとしている。「チチノ里ナル楽シミ多キ里ハ、多ク楽シミアリヤ。楽シキ多ク楽シミ有ル楽シキ我ニハ喜ビアリ。百百（モモモモ）シイ多ク楽シキ里ハ、楽シミ多ク有リヤ楽シヤ」 ということだが、法華五部九巻書序の真贋がいわれることもある。<br />
　「能にして能にあらず」といわれる翁を、さらに違う側面からみてみよう。「能にして能にあらず」とは、翁付五番立というように翁は五番立（脇能物・修羅能・鬘物等）としてする分類のそとだと、まずいえるだろう。面の扱いも違う。白式尉や黒式尉の翁面を舞台で衆目のなかつけたり外したりは、この翁だけである。また、構え方といったらいいのか、ものの運びかたも違う。開演前には、橋掛かりの揚幕の奥、幕内の鏡の間では神事が行われる。「翁飾り」は二段の八足台の神棚である。出演者全員で神酒をいただく。塩で清める。厄払いの火打石もある。<br />
　さらに梅若猶彦の『能楽への招待』（岩波新書）によると次のようになる。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
（略）後見は火打石で御神酒と同じ順番で出演者全員を清めます。<br /> 
　つぎに舞台を清めます。揚幕の脇から舞台に向かって火打石を三回打ちます。そして舞台の反対側に行って切戸から手だけ舞台に突きだして、もう一度、火打石を三回打ちます。（『能楽への招待』梅若猶彦・岩波新書）
</font>
</blockquote >
　ここでわかることは、清められなければならないのは、面箱や烏帽子、あるいは出演者だけではないのであり、場そのものも清めの対象であるということである。さらにこの神事に至るには翁を舞うシテは、女人を絶ち別火をとる。この精進潔斎はひと月にもおよぶらしいのだが、期間は流派によって違うのだろう。そして翁の構成上、千歳もまたこれにならうのではないのだろうか。修正会・修二会などの仏事の別火もまた意味として同等であろう。<br />
　修正会・修二会などの仏事の別火の内容はわからないが、翁を舞うシテの精進潔斎については思いがおよぶことがある。もちろん予断でしかない。それは折口信夫（1887〜1953）の『霊魂の話』の次のような箇所からである。うまい引用箇所がみつからず、最適ではないのでわたしなりに流れを補足すると、霊魂である「たましの」というものに、「たま」から「たましいの観念」としてたどり着こうとしている。それは「日本の神は、昔の言葉で表せばたまと称すべきもの」であったとして始まる。「たま」の発生として、かぐや姫や桃太郎の話が例証として叙述される。
<br />
<blockquote >
<font size="-1">
他界からやつて来るたまは、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく、人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。をかしな考への様であるが、日本人が、最初から、現実に魂を持つて来て居ると考へたら、こんな話は出来なかつたと思はれる。即、容れ物があつてたまがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた。（『折口信夫全集 3』中公文庫）
</font>
</blockquote >
　これ以上は原典にあたってもらうしかないが、要は、翁を舞うであろうシテの精進潔斎という制約は、折口信夫のいう「容れ物」に入るということになるであろう。すると「たま」がやってくる。時間が醸造をそくし「神が出来」、つまり翁を舞うであろうシテは神に「なる」のである。これは儀式という形式なのか、あるいは方法なのかどうかはわからない。だが、わたしたち未知座小劇場の現場性からいえば、明らかにこれは方法である。それは、本番初日の何週間前から合宿・連日稽古の体勢に入ることがあるとすることと、本質的に変わることはないからだ。つまり精進潔斎は「なる」ための方法である。ここでは神などという言葉が飛び交っているが、それはイデア論ではないといことになるだろう。<br />
　さらに『能楽への招待』上記引用のあとに関心をよせざるをえない。梅若猶彦は翁が白式尉で舞うとき「両眼ヲフサグ」というのである。「体ハソル心　両眼ヲフサグ」（梅若家『習物重習型附』）とはどういうことなのだろうか。「体ハソル心」とは重心を移動させず体をそって重心を移動させるという、重心を移動させない姿態であろう。<br />
　さらに注目するのは「眼ヲフサグ」ではないのだ。あえて「両眼ヲフサグ」である。実際に「両眼ヲフサグ」ことで翁の白式尉がなされるかどうかわたしは知らないが、翁の白式尉はそのようにしてあるのだと規定しているのだ。白式尉が切顎であったとしても視界はすでに多くさえぎられているであろう。そこで「両眼ヲフサグ」である。わたしの演技観からすれば、舞うなといっているのである。翁の白式尉は舞ではない、の確認となる。あえていってしまえば、白式尉をつけた翁はすでに翁ではない。もう一つの翁である。その翁が舞でない舞を舞うのである。極論すればここにいない、無化を意味するのかもしれない。無化をいい換えれば、たとえば、能面の眼、鼻、耳、口という七つの穴が、天体の北斗七星を現しているのだという喩えがあるのだとすれば、翁とは明らかにこの天体の中心である北極星ということになる、ということだろう。<br />
　こうして「能にして能にあらず」の翁は予見できぬものが幾重にも孕まれているというほかない。それは神事であり仏事であり、言祝ぎということになる。神仏習合と片付けることもできるだろう。なら神と仏を前にして天下安寧を寿ぐとはどういうことか。すべてを前にしてすべてを言祝ぐには、翁は神でもあり仏でもあることになるのかもしれない。同時に神でも仏でもない具体性でない翁そのものでなければならないといえるかもしれない。その翁が舞わずして舞うとはどういうことなのだろう。<br />
　ここでいえることは翁とは、神でも仏でもあり、神でも仏でもないものであり、舞わずして舞うことで翁は翁であるということができるだけである。それが能楽の翁ということである。このように囲い込むことはできるだろう。また、このような翁が翁であるために、幕内での清めがあり、別火等々の様々な囲い込みがあるのだ。<br />
　たぶんわたしたちの知っている能の翁はここまでであるだろう。演技論としても出自は詳らかでなくてもいいのであろう。換言すれば、囲い込みによって醸造される時間の密度を後ろ盾として、翁になるのではなく、架設した翁を行為しうるという方法である。しかしことは、その翁の向こうにはどうして行くのか？<br />
　わたしたちはこの問いとともにここまで来た。だがこのこたえは、まだどこにも用意されていない。そして残念ながら、このままでは翁が翁を言祝いでいるという構図は残ることになる。少々うがったいい方をしてみれば、翁が翁を言祝ぐからこそ、神事は厳格であり厳粛であることが求められる。プレッシャーなどどこ吹く風という論理性は、はたしてありえないのか？<br />
　このようにいってみよう。翁はなにものでもないのだと。するとどうなるのだ。<br />
　わたしたちはこの問いに押されて、猿楽の翁や田楽の翁に歩みを進めなければならない。世阿弥がいうように能楽の翁のむこうには、これらの翁があるのだから。<br />
<!-- /more -->
</p>
<p>　</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=245">
<title>翁と秦河勝　　---その１　新熊野神事猿楽</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=245</link>
<dc:date>2009-03-06T15:17:36+0900</dc:date>
<description>
　何年まえになるのだろうか? 大阪から月に一度というほどで、複数年にわたり京都に出向いていた。電車を乗り換え、京阪電車の終点・三条駅で降り、東大路通りの市バスで百万遍に向かうと、京都大学内にある西部講堂に着くのであった。路面電車が走ってい...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　何年まえになるのだろうか? 大阪から月に一度というほどで、複数年にわたり京都に出向いていた。電車を乗り換え、京阪電車の終点・三条駅で降り、東大路通りの市バスで百万遍に向かうと、京都大学内にある西部講堂に着くのであった。路面電車が走っていたかどうか、もう定かではない。<br />
　京阪電車がその後、出町柳まで伸びた。いまではここで降り、今出川通りを百万遍まで歩けばいい。わざわざ京都に行くという想いはなくなった。むしろ大阪・京橋までが遠い。道すがら昼過ぎから開いている立ち飲み屋が多いのだ。<br />
　数人で乗用車でいく場合は名神高速をおりて国道二号線に出る。京都市内に入り十条を過ぎ、九条の東寺に突き当たると二号線にそって右折れする。九条油小路で国道二号線と別れ、九条通りを東に進み竹田街道や鴨川を越えると、やがて東大路通りに入る。ここまでくれば道なりとなり、八坂神社の山門前やらを通り過ぎていけば目的地に着くのであった。<br />
　東大路通りに入ったあたりまでかえってみたい。JR東海道本線を越える手前である。<br />
　道の左手から大きな樟の枝葉が、影を落としてせり出している。そぼ降る雨にくすんでいることもあった。これは今熊野の新熊野神社にそびえる樹齢数百年の巨木である。神社の名前から推し測ると御霊を熊野から分祀ということになるのだろうか。樟は1374年（応安７年）にこの神社で行われた「新熊野神事猿楽」のざわめきを聴いていたはずだ。<br />
　観阿弥清次（1333-1384）・世阿弥元清(1363-1443)父子はこの新熊野神事猿楽に出演。それは室町三代将軍足利義満の台覧を得た演能であった。世阿弥はこのとき十二才、幼名・鬼夜叉あるいは藤若とよばれていた。<br />
(つづきは右下「もっと読む」をクリックです)<br />
</p>
<p>
<!-- more -->
　新熊野神事猿楽の演目はなんであり観阿弥が何を舞ったのか判らない。いや、わたしは知らない。だが、この新熊野神事猿楽をきっかけにして観阿弥の結崎座は都への進出を果たしたことになった。当時、京の都では田楽が主流であり大和猿楽はその勢いに及ばなかったが、足利義満をパトロンにすることによって、絶大なその庇護のもと大和猿楽は猿楽能から能楽となり今日への歩みをはじめた。<br />
　観阿弥は結崎座の棟梁として新熊野神事猿楽に座の浮沈をかけたのであろう。だが勝負はすでについていたはずだ。当時、観阿弥の舞台は大和を離れ、その名声は近江にも聞こえていた。この隆盛をきき足利義満は新熊野神社にかけつけたわけである。つまり観阿弥はこの演能の客席に足利義満を坐らせればよかったのだ。それほどの気骨と計算がなければ、都に進出し田楽と勝負するなどという展望はありえない。何せ座の存亡を賭けるわけである。結崎座だけの事に収まらないだろう。ヘタをすれば大和猿楽そのものの消滅にも繋がるはずである。それもまた想定内だ。<br />
　この野望はどこから来るのか？はたしてそれは野望なのか？そうしたとしてどうなるのか？単なる上昇志向なのか？わたしにはほとんど理解不能なのだが、観阿弥の伊賀から奈良の結崎への移行の中に萌芽があるように思われる。やはりこれ以上は世阿弥の伝書に聞き続けるしかないだろう。<br />
　足利義満の来臨がなった。観阿弥はそれを嵐窓から確認する。場を診る。あとは清めの塩、摺り足の左のせり出しをどう呼吸するかだけであった。観阿弥の「おまーく」の小声で揚幕があがった。<br />
　新熊野神事猿楽はこうしておわった。しかしこのとき観阿弥には計算違いが、二つあったはずだ。<br />
　新熊野神事猿楽が結崎座の勧進興行であっても、神事である限りには、まず「翁」が行為される。この「能にして能にあらず」といわれる翁は座の最長老が舞うのが慣わしである。この慣わしとは、あるいはこの決め事とは猿楽が猿楽であるための自同律といってもいいのではないだろうか。しかしこのとき太夫である観阿弥がこの言祝ぎを務めたのである。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　翁をば、昔は宿老次第に舞いけるを、今熊野の申楽の時、将軍家、初めて御成なれば、一番に出づべき者を御尋ね有べきに、太夫にてなくてはと、南阿弥陀仏一言によりて、清次出仕し、せられしより、是を初めとす。(「申楽談儀」から　『世阿弥　禅竹』日本思想体系24 岩波書店)
</font>
</blockquote >
　この瞬間こそ、猿楽が猿楽能になった瞬間である。言葉を換えれば、観阿弥の猿楽は、猿楽と田楽という対概念をすてたのである。論理性として田楽が問題ではなくなったということである。猿楽や田楽から神事を抜けばそれは猿楽でも田楽でもない。観阿弥は能に転位したのでる。このとき同時に観阿弥の大和は伊賀とともに、遠くにあって思う故郷になったのだ。こうして何か選ぶということは、あるものを捨てるということである。ことの抽象化を計るのだ。そうした本質行為はさらなる具体性を導く。<br />
　わたしはこの展開を観阿弥の計算違いとしたのだ。正確にはその後が計算できないということである。<br />
　翁の内実の変更は、足利義満配下の同朋衆であった南阿弥陀仏という人物の計らいによるとされているが、はたしてどうだろう。同朋衆とは「将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々」のことであるが、南阿弥陀仏が開演直前に「将軍が、太夫に翁を舞っていただきたいと申しておるのですが」で、観阿弥が翁を舞うことになったのではないであろう。<br />
　話を判りやすくしてみよう。東京に国立猿楽劇場があった。そこの芸術監督の南阿弥陀仏さんが、仕込みに入った結崎座代表の観阿弥に「急なお願いなんですが、やはりお客さんは、観阿弥さんの翁をみたいと思います。文化振興事業なので文部科学省もそう願っているようです。お宅の事情もあるでしょうが、芸術監督のわたしとしましても、そんな心積りでプランニングしてきたので、なんとかなるんだったらお願いしたいのですが」とのたっまった。乗り込みの日に急にいわれた観阿弥さんは「急に言われても、そら困りますわ。勘弁してくださいや」となるのは当然だろう。<br />
　事前の駆け引きがあったと想定するのだが、さてだからといって、観阿弥一人が了承すれば、何とかなるものではない。それが猿楽の翁である。観阿弥が了承すればそれは猿楽と別れを告げるということになるだろう。猿楽が猿楽であるための根拠を捨てるのである。つまり都に進出し、足利義満をパトロンにするということは、あらかじめそのような意味を持っていたことになるとわたしは考える。結崎座は猿楽芸能を根幹とすることを相対化せざるをえないのだ。そのためにはどう考えても結崎座に関わる人々の支持が必要である。観阿弥一人が了承すればそれが決まるということではないのだ。それが猿楽の翁というものであろう。翁の位置はそのように重いものなのだ。こうして事前の決断なしにはことは始まらないのである。<br />
　大和猿楽四座といわれる結崎座(観世流)以外の外山座(宝生流)、坂戸座(金剛流)、円満井座(金春流)に話を通したかどうかは知らない。安易にことを運べば、新熊野神事猿楽の翁はないだろう。春日社の若宮祭や興福寺、多武峰寺の法会からも結崎座は外されることになるだろう。いわば小屋つきという営業窓口を失うのであるから、経済的にも成り立たない。地方への神社仏閣の勧進興行もできなくなる。アウトだ。<br />
　結崎座は腹を括った。こうして勝負はついた。しかし、そのとき長期的な計算やビジョンが、観阿弥が選び取った猿楽能の向こうに展望としての思い描く能楽があったのではないだろう。とすれば、ついにそれは決意である、ということになる。これらを促したものは田楽、散楽からの香具師、白拍子、角つけ、曲舞、あるいは歌舞を主とする近江猿楽や、他の摂津、丹波各猿楽との熾烈な寡頭競争、緊張感、つまりは興行的な逼迫感。これらが成立するには奈良時代以降の荘園制度が崩壊し、村が成立していなければならない。観客や興行元がなければならない。つまりは労働力によって剰余価値が生産され、遊興という消費が地頭や豪族、あるいは新興の武士階級から宗教的祭事として、権力支配構造上保障されていなければならない。つまりは芸能的な隆盛はやはり観客によって保障される。パトロンとてこの経済構造を無視することはできない。<br />
　やがて武士階級が、猿楽の諸流派を何万石かで囲い込むこととなる。何かを捨て安定を得ることで、猿楽の様式や形式が研ぎ澄まされたとしても、ついには観客という大衆に向き合う日が、近代・明治となって訪れるのである。<br />
　なんのことはない、情況は本質的には、現在と変わりがないといっているだけであるが、例えば日本中世史の歴史学者である網野善彦(1928-2004)によれば次のようになる。<br />
<blockquote >
<font size="-1">
　消滅しつつあるわれわれの原体験につながる社会はどこまでさかのぼれるかというと、だいたい室町時代までさかのぼれるというのがこれまでの研究の常識になっています。つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階では、非常に大きなちがいがある。(『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房)
</font>
</blockquote >
　現代の村なり家族という共同体性がからむ社会の様式や原型は、ほぼ十三世紀までさかのぼれる。わたしたちの常識という想像力はそこまでは行使できるだろう、と読むのであるが、網野のいう「消滅しつつあるわれわれの原体験」とは昭和という社会性である。近代にある前近代性。あるいはわたしたちの家屋には失われてしまった暗闇。夜、子供たちが便所へいくことの怖さは、何LDKのマンションにはもうない。納屋もない。つまり、宮崎駿の『となりのトトロ』のなかでしか「まっくろクロスケ」に会えないように、平成のわれわれは、網野とは違って核家族や振り込め詐欺等々という色眼鏡をかけるしかないのではあるが。<br />
　こうして、観阿弥が上ることになった京の都はわたしたちの前にある。このときすでに物まね的芸が中心であった大和猿楽は、舞を取り入れ、謡いを洗練させた猿楽となっていた。この変遷と展開は世阿弥による『風姿花伝』前半の観阿弥からの聞き書きの整理による演技論から知ることができる。<br />
　もう一つの計算違いに移ろう。<br />
　上記のように、新熊野神事猿楽は成功した。しかしそれは足利義満の心の動きまで制御できるものではなかった。翁のあと序破急の流れに従って五番立てで演目が披瀝されたであろう。ここで足利義満は鬼夜叉の美貌に執心したのである。それほどの美形な稚児態であったということだろうが、それもこれも観阿弥の舞台が秀逸でなければ意味がない。そうして、新熊野神事猿楽の全体を突き抜け、世阿弥の姿態が足利義満の心を射抜いたというしかない。この寵愛なしに足利義満の絶大なその庇護もなかったであろう。足利義満、十七歳。<br />
　露骨にいえば、座長が看板女優に「おまえ、あの谷町と寝て一発やってこい。そして懐取ってきてくれ」というわけである。ここではスケールが違う、男色である、父子である。一筋縄ではいかぬねじれやゆがみがある。月の影が言霊をねじ伏せる。<br />
　……世阿弥の『風姿花伝』でいう花や幽玄、老いというメルクマールになにも重ならないというのは不自然である。<br />
　これは観阿弥の計算違いであったのであろうか？そうは言い切れないのも一般論であろう。いずれにしろ世阿弥は嫉妬と嫉みの海にも投げ出されたのである。このあたりは瀬戸内寂聴の小説『秘花』が少し触れている。<br />
　観阿弥は1384年、勧進先の駿河で演能ののちその地で没した。世阿弥、二十一歳。<br />
　七十二歳の世阿弥は佐渡へ流される。八十一歳没。佐渡で死んだのか、都に帰ってこれたのかは詳らかでない。娘婿の金春禅竹の元で亡くなったのかもしれない。波乱の人生ということになるのだろうが、今はこれ以上深入りできない。ただ、どうであったとしても、波乱であったとしても、深められなければならなかったものは、より強く模索されたとわたしたちは知っている。そして世阿弥はその『風姿花伝』の最後でこういうのである。
<blockquote >
<font size="-1">
一代一人の相傳なり。たとひ、一子たりと云うとも、無器用の者には傳ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす」と云へり。(『風姿花伝』岩波文庫)
</font>
</blockquote >
　わたしたちがこの世阿弥の決意を、あるいはこの演技観がいかほどのものであるのかを知ることになるのは、新熊野神事猿楽から遠く離れてである。子供ができず親族から養子をとり、やがて長男が産まれる。この長男は演能先で死を迎える。それは病死なのか、それとも、あるいは……。次男は倦厭を残し出家する。それでも「無器用の者には傳ふべからず」と不器用ではなく構え、己をそこに立たせるしかないのであれば、おのずから佐渡流刑は用意される。わたしはそう読んでしまうのである。<br />
<!-- /more -->
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=243">
<title>稽古と本番</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=243</link>
<dc:date>2009-01-20T05:05:42+0900</dc:date>
<description>
　朝青龍の取組みを何日かテレビでみる。相撲ファンで朝青龍に関心があるというわけではない。そういう時間の巡り合わせだ。九日目の相撲は新大関・日馬富士との一番、寄り倒して朝青龍の圧勝。
　素人目でも判ることは、初日のドタバタに比べ、呼吸が乱れ...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　朝青龍の取組みを何日かテレビでみる。相撲ファンで朝青龍に関心があるというわけではない。そういう時間の巡り合わせだ。九日目の相撲は新大関・日馬富士との一番、寄り倒して朝青龍の圧勝。<br />
　素人目でも判ることは、初日のドタバタに比べ、呼吸が乱れていないことだ。これが何を意味するのかわたしにはわからない。余裕が出てきたということなのだろうか？<br />
　元力士の解説者が次のようなことを取り組みのあといっていた。わたしなりにまとめると次のようになる。<br />
<br />
　「本番の一番一番は稽古場の一番とは違います。本番の勝ち星の積み重ねで調子を完全に戻したのでしょう。本番で勝つことがだいじです。稽古不足だとか、稽古が十分だったとかということではありません。それが本番で勝つということです」<br />
<br />
　この解説者の発言をわたしの立場でよりよく読むなら、稽古とは、稽古場とは違う本番のリズムをその本番の場で私物化するための、統括するための、それを実現するための作業、となる。これが解説者のいう稽古と本番の弁証法の根幹である。ここに虚構性をさしはさむ余地はないのだから、多分それで間違いないだろう。一般論でいえば稽古と本番は別だと仮説することで、多くを導き出すことができるが、ここでは文脈を混乱させることになる。<br />
　件の解説者は体力や技の研鑽が必要でないといっているのではないだろう。日々の稽古なしにはどれもありえないのは道理である。ことは、朝青龍が稽古不足であっても、それが綱渡り的であっても、九日目の相撲までで、解説者のいう何かができたということである。「調子を完全に戻してきた」とはそういうことであろう。これが横綱という地位の技量なのか、朝青龍という個的な力士の能力なのか、十年来の力士としての積み重ねの結果なのかそれはわたしにはわからない。判るのは稽古でしなければならないことを、本番でしているということを解説者はいっているということである。勝つためにそうなったのだといってるのだろう。これを単純化すれば、朝青龍は稽古をしてきたと、解説者は逆説としていっていることになるのだが……<br />
　こうなると朝青龍は本番で、二つのことをしていることになる。ひとつは勝つこと、いま一つは勝つための調整。わけのわからぬいい方をしてみれば、本番で稽古をしているのである。ウム、この「本番で稽古をしている」はそうとう考えなければならない。ここでいう稽古と、日々の稽古は同音異語である。が、ここでは置いておくことができるだろう。<br />
　以上の推論がなにか語っているとするなら、次に気になるのは「本番で勝つ」というその意味合いである。解説者の論理に従えば、稽古不足であっても、本番で勝てば稽古不足を凌駕する勝ち星となるということだが、明らかに、この論理は稽古そのものの位置付けとその内実を無化する。短絡すれば、稽古をしなくても本番で勝てば、稽古の内実を私有できるということになる。ほとんど凡庸な結果論というしかない。勝利の物神化をもたらすが、方法を導くことはないのだ。<br />
　これが論理とすれば、抽象論としては正しいとしてもいい。しかし相手がある。相手は一般論として稽古をしているというのが前提とすると、こんな無謀な勝利はありえない。これもまた道理である。この道理を打ち破るには相手が弱いのだというしかない。だが、相手もプロである。つまり解説者は素人向けの無謀な解説をしているということにならないだろうか。そうでなければ解説者は「稽古をしていないから本番の一番で勝つことが大切です。それができているのは稽古をしているのです」と思っていることになる。もちろんこの文節の矛盾には何の意味もない。そうだというだけである。さてと横道に逸れるなら、やはりこう問いかけてみたい。舞台における稽古と本番を直結するつもりはないが、そのとき、舞台の側はどのようにいえば良いだろうか？<br />
　抜け道はないようであるが、視点を変えてみよう。<br />
　解説者の発言を深読みしてみよう。それが、この発言の真意だろう。つまり、解説者は稽古不足だが、稽古をしていないとは思っていないはずだ。だから「調子を完全に戻す」ことができたとするのであろう。どうも、これもまたおかしな論理である。ドタバタして勝つから稽古不足なのだろうが、しかし勝つということは稽古の結果であり、その上での「調子を完全に戻してきた」のだ。やはり、解説者にとって朝青龍の連勝は不可解なのだ。不可解であるがゆえ、理解の回路を本番の特殊性に求めざるを得なかったのだ。解説者の前提はやはり稽古不足ということである。だが、それは彼の稽古の概念から規定してのことであるということをまだ逸脱していない。<br />
　さて、ここで明確にいえることは、解説者の稽古の概念では朝青龍の連勝という事態を捉えきれないということである。換言すれば、解説者の稽古の概念と朝青龍の稽古の概念が異なるのだ、というしかないのである。<br />
　これ以上語る言葉はないが、舞台における稽古と本番の絡みを加味していえば、確かに稽古と本番はまるで違う。このことにはいいたい事は多々、山ほどあるが、まずはそれはそれでいい。そこでもいえることは、稽古不足であったとしても、それを前に立てて論理を展開する立場はどこにもない、ということだけである。<br />
　どうも後味がわるい。つまり解説者のいうとおうりだとすると、相撲などたいしたことはない、となってしまうのだ。稽古は稽古、本番結果よしでOK。勝負であるから、勝ち負けはあるだろう。それはそれで時の運、仕方がないということになる。だがしかし残念ながら、勝ち負けは抽象的にあるわけではない。稽古と本番に支えられてある以外にはないのだ。だから、やはり次のようにいうしかないだろう。<br />
<br />
　「勝負ですから勝ち負けはあるでしょうが、朝青龍は連勝で調子を完全に戻しましたね。わたしには判りませんが、やはり、それなりの稽古があったということでしょう。本当のところは朝青龍本人と部屋の親方が決めることでしょうが、あとの六日間が大切です。本場所前の稽古量で乗り切ることができるか、それは朝青龍という力士の力量が問われる六日間です。ですが、朝青龍は横綱です。初日から十全に勝負としてのみ土俵に上がってほしかったですね。それが大相撲の横綱です。」<br />
<br />
　ここまでくればすべては明らかである。お相撲さんは多くいるが、土俵の上で力士となるのは至難の業であるということである。<br />
　
</p>

]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=242">
<title>塩田千春『After That -皮膚からの記憶』の世界　その１</title>
<link>http://info.odic.ne.jp/yami/b_log/P_BLOG/article.php?id=242</link>
<dc:date>2009-01-19T13:06:33+0900</dc:date>
<description>
　塩田千春（1972〜）の世界を、わたしの側から何とか言葉にしてみたい、というのがここでの思惑である。

　言葉にする……。
　ある舞台に立会ったあと、それを言葉にする必要はあまりない。わたしたちの稽古場や、未知座小劇場の舞台で解消すれば...</description>
<content:encoded>
<![CDATA[
<p>
　塩田千春（1972〜）の世界を、わたしの側から何とか言葉にしてみたい、というのがここでの思惑である。<br />
<br />
　言葉にする……。<br />
　ある舞台に立会ったあと、それを言葉にする必要はあまりない。わたしたちの稽古場や、未知座小劇場の舞台で解消すればことはたりる。そうできるかどうかは別にして、それが正統であり、それ以外にはない。もちろん、あまりの阿呆らしさに言葉を失うこともある。その逆は、また多くは、言葉にしなければならないことは舞台を離れてある。<br />
　……なんというか「あまりの阿呆らしさに言葉を失う」などと綴るから、何かが捻じ曲げられ、考えなくてもいいことに足場を移さざるをえないことになるのだが、それはわたしが、そしてわたしたちが状況に即してあるしかないという別名に過ぎないといえばそうなのだが、このいたしかなさが救い難いのは、情況論に耐えうる情況に転化することができないのではないかということが、ことの本質のようにも思われる。黙ってそこを通り過ぎれば良いようなものの、そうはいかないのが煩悩具足の、これまたいたしかなさである。つまり、このなんとも判ったような言い方をしてしまうのが、煩悩具足のどうしようもないだらしなさであり、三度いたしかたない。二言三言いつも多いのだ。この文章もまたしかりかも知れない。<br />
　さて、上記の「その逆」だが、これは演劇といわれるものの範疇にはないことになるだろう。あえてそうすることが方法なのだ。繰り返せば「その逆」であるものも「わたしたちの稽古場や、未知座小劇場の舞台で解消すれば」、そうできればそれが最良の手立てであるが、すべてが望むようにいくわけではない。言葉にせざるをえない。それは「稽古場や、未知座小劇場の舞台」を突き動かすためにこそ、言葉にしなければならないのだ。それは多くは、演劇といわれて括られるであろうものの範疇外にあるのである。できるなら、それを情況といいたいのだ。それは演技そのものなのだが。……ここでも演劇をして演劇を語ることはできない。<br />
　思いつくまま羅列することは容易い。<br />
　日本舞踊の「武原はん(1903-1998)」である。正確には「武原はんと井上八千代(1905-2004)」となる。このお二方はすでに亡くなられているが、先日、テレビでかつての舞台が放映されていた。武原はんの『ゆき』はことさら動かない。そう思われる。井上八千代の『長刀八島』は動きそのものである。わたしのなけなしの日本舞踊観からすれば大きく逸脱している。何故だ？いそいそと二十年前の『日本の舞踊』（渡辺保・著）を引き出し、読み直す始末である。何とか言葉にしてみたい。<br />
　分析哲学あるいは言語哲学では言葉の表現の意味が問われる。わたしの位置からすればそれは発話のことであるのだが、これを表現として絡みとり、プラトン・アリストテレス以降の哲学的課題に応えうると架設するのはなぜか？これは演劇的課題（？）といかに絡むのか？ソシュールと木田元が発露する反哲学としてのハイデッガーでは駄目なのか？多分そこがわたしのウィトゲンシュタインになるのかもしれない。これも言葉にしてみたい。<br />
　演劇を演劇をして死滅させるに似て、仏道に帰依した親鸞が、思想家たらざるをえない親鸞に転位するその脈絡はどのように用意されざるを得なかったのか？非僧非俗の愚禿をにんじるとき表現としての浄土はどのようにして表現たりうるのか？やはり言葉にしてみたい。法然や親鸞の専修念仏に対するその出自を問った明恵上人の根拠論の正当性は演技論たりうるか？<br />
　三木成夫の圧倒的な時間軸をともなった解剖学は、演劇的身体論たりうるか？メルロ・ポンティーは？<br />
　夏目漱石はなぜ夏目漱石でありえたのか？<br />
　きりがない。<br />
　高島野十郎の遺作『ノート』にもたどり着いていない。<br />
　これらの百の思惑が揺れに揺れ、ぶれにぶれようと一つの拘りを言葉にしてみることができるなら、小躍りしてみることはやぶさかでないが、可能なものはその一つにまとわり付いた余剰なものを言葉にできるだけなのかもしれない。幾多はこんな予感に規定されて立ち上がってくるのだが、そこを潜り抜けることで、辛うじて爪痕を立てることができるのではないか……そう思い知らされる。<br />
　さて、こうしていまわたしは塩田千春の前に立っている。正確には佇んでいる。<br />
　昨年の八月の下旬、大阪の国立美術館に、ある芸大の卵学生とモリエール展を見に行った。これが目的であった。入り口前のフロアーで『塩田千春　精神の呼吸』展が催されていた。モリエール展のチケットを購入するとこれも入場できるのであった。悪いがモリエール展は二の次となった。<br />
　わたしは塩田千春という方を知らない。まったく知らない。そうして『大陸を越えて』から『眠っている間に』と歩いていく。『After That -皮膚からの記憶』に移っていく。ここで佇む。<br />
　飛びタッパゆうに二十尺はあるだろう大きな作品である。<br />
　わたしはこうして今、徒手空拳で塩田千春の『After That -皮膚からの記憶』の前に佇んでいるのであった。昨年の八月以来……危険である。<br />
<br />
<blockquote >
<font size="-1">
参考URL<br />
<a href="http://www.nihonbuyo.com/video/han.html" target="_blank">『舞ひとすじ武原はん』・http://www.nihonbuyo.com/video/han.html </a>
<br />
<a href="http://www.chiharu-shiota.com/jp/
" target="_blank">塩田千春ホームページ ・http://www.chiharu-shiota.com/jp/ </a>
<br />
<a href="http://www.nmao.go.jp/japanese/chiharu_shiota/works/index.html" target="_blank">『塩田千春　精神の呼吸』・http://www.nmao.go.jp/japanese/chiharu_shiota/works/index.html</a>
</font>
</blockquote >

</p>

]]>
</content:encoded>
</item>

</rdf:RDF>