大阪演劇情報センターとNPO
- 大阪演劇情報センターとNPO法人化にむけて --草稿 文責・闇 黒光
- はじめに
- 経緯
- 情報論として
- 具体<
- 趣旨書
- 【 第1草稿 】
- 【 第2草稿 】
- 【 第3草稿 】
- NPO大阪演劇情報センターへのお誘い --草稿 文責・闇 黒光
はじめに
表題は『大阪演劇情報センターとNPO法人化にむけて --草稿』であり『大阪演劇情報センターのNPO法人化にむけて--草稿』ではありません。現段階ではあくまでも闇黒光の私案であり、作業仮説であることをお断りしておきます。
さて、表現論の地平からNPOを語り始めるのが順当でしょうが、前書きが長くなりそうなので、このあたりは別稿に譲り、具体のなかに多くを置くことにとりかかります。
この拙文の全体は、大阪演劇情報センターをNPO法人化するための位置づけと、模索が主眼であり、同時にそのことが具体的な作業仮説を導き、提起し、吟味することになり、展望にかえることになる、とできればまずは良とします。が、第1稿としては基調報告に重点を置き、それを背後で求めます。
経緯
大阪演劇情報センターとはなにはさておき、概略すればそれは、演劇表現の地場のなかで、その価値観に従い、自身を律しようとする一つの形態です。
この位置から、舞台表現という現場が全すべてである、とすることに何らやぶさかではありませんが、また、ありませんがと言う反語を対置する立場を認める事ができないとする立場ですが、その立場を堅持しなお、舞台表現を状況論として相対化することによって、かろうじて舞台表現そのものを止揚する可能性が残されている、とするのもまた大阪演劇情報センターの表現論と状況論と、同時にその認識論です。
大阪演劇情報センターが役者たらんとする身体そのものであるなら、演技論のみが求められるでしょうが、自ずと異なった語り口が求められるしかないのでしょうが、仮に演技論とは、自身にむかってどれだけ多くの模索が試行されたのかによって、その価値の幅が決まるのであるとするなら、寡黙に自身の内部に向かってする拘りの懸垂が、すべての表現の可能性を切り開くという一意、と残念ながらならないのも事実です。
表現とは、自ずと全体であることで自立を求めますが、それは同時に自立とは自家中毒の別名です。換言すれば、表現は世界(=全体)であることで自身を実現しようとしますが、それはやはり仮説された絶対世界でしかありません。これは欺瞞ではなく、表現衝動はこのこうでしかない現実に突き動かされるしかなく、その表現衝動が表現を装うには、表現衝動が生き延びるには、この場の根拠としての絶対性を要求するしかないからです。この自己絶対性なしには、見られる身体は、自身の観念のなかで瓦解します。それもこれも他者を求めるからに他なりません。表現衝動は他者に対象化されて表現プロセスを成就します。このための、他者に相対するための根拠が自己絶対性なのです。
これは極めて可能性の孕まれた行為なのですが、この表現衝動の自然成長過程は、残念ながら、自己絶対性を自足した瞬間、全ての可能性を閉じてしまうのです。
自己絶対性を自足するとは、全ての自己同一化を意味します。これは論理ですが、全ての自己同一化とは世界の死滅と同義です。対他者の喪失なのですから、表現という概念は存在しないことになります。つまり表現とは、自ずと全体であることで自立を求めますが、表現が表現として自立した瞬間、表現は瓦解せざるを得ないのです。他者が存在しないのですから、何もいうことはありません。
ここに表現の不可能性があります。表現は、自らによってその表現を証明できない、といえば少しは哲学的になり、わたしたちの表現の現在を照らし出すでしょうか。
さて、これは奇をてらった論理でしょうか。大阪演劇情報センターは、舞台表現という現場がすべてであるとする立場の結果として、いま表現は舞台の上で瓦解している、としてそれを表現の現在と位置付けています。表現の不可能性が語られざるを得ない、状況があるだけです。
ここでいま、個別舞台を語っているのではありません。それは、瓦解の後の、内なる神との対話としてある、ととおり過ぎることにします。
問題は、表現の不可能性が標榜されるなかで、新たなる表現の幅を切り開くだけなのです。ここで改めて、舞台表現を状況論として相対化することによって、かろうじて舞台表現そのものを止揚する可能性が残されている、とするのもまた大阪演劇情報センターの表現論と状況論と、同時にその認識論です、と揚言することにしておきます。
情報論として
寡黙に自身の内部に向かってする拘りの懸垂が、すべての表現の可能性を切り開くという一意、これが等式として定義される仮説があるなら、大阪演劇情報センターの情報論をその一つとして、ここに提起することにします。
断言します。この情報論以降、演劇と離脱し論を進めることにします。表現論を情報論として語るのではなく、それ自身として表現論であるためです。さらに何故情報論なのか? この自問には作業仮説の中で反芻することになるしかないので、ここではそのように選択したという段階から、始めます。もちろん論理的帰結なのですが、それは個別性に支えられたもので、一般性を持ちません。
表現の不可能性が標榜されるなかで、新たなる表現の幅を切り開くに仮説は、その個別性ほどあると展望します。大阪演劇情報センターは、その個別性の一つとして、己の論理性ととして、大阪演劇情報センターのNPO法人化を試行することにしました。
この作業仮説と活動計画の全体が大阪演劇情報センターの情報論となるのですが、大阪演劇情報センターのNPO法人化作業は、一つの作業仮説の結果であるということができます。
演劇の現場からすれば、話は甚だ飛躍することになるのでしょうが、大阪演劇情報センターは、これまで演劇営為の一つの可能性として「情報とネットワーク」をキーワードに作業を進めて来ました。これは原理として「すべてはデータベース化できる」という地平にたどり着くのでした。細部にわたっては別稿を用意するとして、このためにドメインの取得と、サーバ構築を行い、データベースサーバを可能な限り開放する、ことことにしました。このシステムは、システムエンジニアのノウハウとWebアプリケーションの作成抜きには機能しません。この利用はいま可能です。
さて、持続とその展開が保証されなければなりません。ここに大阪演劇情報センターのNPO法人化が目論まれました。
今後、さらに現状の細部報告を行っていくことにします。それは利用できる具体性と、さらなる論理展開になると思われます。
まずは以上を第1稿とします。
(2003.07.15 文責・K)
さてやはり「演技について」から始めるしかない。
仮に、次の命題を掲げることから始めることにしよう。
演技は、表現でもなければ意味でもない。演技とはわたしが飯を喰うということとは異なって、行為の外に価値を置き、それをなぞりある意味を指し示すことを良とするものではない。いわば演技という実存は、行為と価値を同時に現在のなかに叩きこうことになる。この演劇営為は、内実において二重化を強いられているのだが、それはまた同時に今を在ることで、明日を行為するという、時間的な二重化をも私物化するという、極めて個的な自己証察行為を強いられる、仮説作業である。つまりまず、演技とは記号ではないと確認すれば、事足りるのであるが、さて、このような荒野から立ち上がる意味はどこにあるのか。結論からいえば、意味はないのであり、ないから行為は試行される。
演技はそれ自体では表現でない,ましてや意味ではない、したがってそれ自体は価値ではない。
あからさまにいえば、役者たらんとする俳優の身体の前には、なにもないのである。依拠する根拠を、既存の価値の中に求めることはできない。今まさに、見られるということを前提にして板の上に登るというとき、自身を正当化することを止める、と決意することに等しい。このような、板の上にあるというアイデンティティと倫理が、表現の鳥羽口である。平たくいえば、表現の権力性を抹殺する以外、今日において見られる側に立つという論拠はないであろう。そうして自身を生きるしかない。はたしてこうして、価値を捏造しうるか。
やはりまずそこには、板の上に登らんとするささやかな決意だけがあるにすぎない。
言葉をかえすが、「板の上に登らんとするささやかな決意」が、あるだけではない。それを特筆するということなのだが、実はその決意は「言葉と身体」によって形づけられてある。ともあれ、俳優が言葉で語り身体で語るのであれば、言葉もまた身体であり、身体もまた言葉である、そのような言語が在るのである。これを情報といえば話が早いのだが、論旨からそうもいくまい。
この情報とは何か?ここでは価値である。「板の上に登らんとするささやかな決意」を決意づけた論拠を捏造した「言葉と身体」である。こうしてこの「言葉と身体」は「板の上に登らんとするささやかな決意」のイデオロギィー、思想性であり、世界観であり、まる抱えで彼なり、彼女なりの社会性である。
ところで、ここでは出典を明かにできないが、この地球には日本語というような言語が数千の数ほどあるとしよう。リアリティーがあるようにいうなら、地球外生命体の数ほどあるであろう、言語学の言葉を援用できるなら「ランガージュ」は、無限に在るということになる。このとき彼なり、彼女なりの社会性は、如何なる意味を持ち、どのような位置にあることになるのだろうか。
このように問うことは唐突であろうか。
たとえば、社会的倫理や道徳、あるいは社会正義や一つの歴史観が「物語」という様式によって、時代化する時間が無化されたとするなら、唐突だといって済まされないことは確かである。当然、経済的な生産様式の自然成長過程のなせる技だと、したり顔にいったところでどうにもならない。では、なぜ情報は遂に国家という、国境という概念を駆逐できたのか、あるいは無化できたように見えるのか。これもまた語るに落ちる。
わたしが、わたしの現場からつまびらかにできることは、またいいうるとすれば、物語=情報などどこにもない、ということだけである。
換言すれば、それはつまり、彼なり、彼女なりの「板の上に登らんとするささやかな決意」は、無限に在る「言語」に対し「物語」という、合いもしない鍵でドアをこじ開けようとしている、とそれをいうことができる。
演技論はいま、このように二重に病んでいる。いや重層化して出口を見失っている。
これは不条理ではない。不条理とは世界の解釈の仕方であるだけでなく、世界の正当化にすぎない。これらを足げにしてすすんで来たにもかかわらず、彼なり、彼女なりの「板の上に登らんとするささやかな決意」は、やはりたたずんでいる。ささやかな決意を獲得するというのは、決意する根拠がどこにもないということを決意することであり、圧倒的な情報量をして捏造される社会性に対し、唯一手繰り寄せることのできる、自身の根拠のなさの根拠こそ「ささやかな決意」を装うことができたのである。それこそ行為に値しうる。
もちろん、いまでも世界に立ち向かっているのは彼なり、彼女なりの「板の上に登らんとするささやかな決意」であるが、しかし、行為のまえでたたづんでいるのは、情報のコード化に似る。
この作業は、情報を価値と位置付ける作業に他ならない。もちろん情報は垂れ流されることを望んではいないが、交換されることによって価値となる。断っておくが、価値があるから交換されるのではない。情報が時間の無化によって、あたかも社会性を付与されたかのようの装うことができるから、交換され社会的価値となり、それを主張する。
これは「物語」のことである。わたしはこれを「物語」と呼ばす別の言葉を用いたいが、ここでは「情報」そのものとしての「物語」というしかない。
ここで行われているのは、情報のコード化である。無限に在る「言語」を、単一のコードに置き換え、情報そのものを価値としようというのではない。わたしの情報とあなたの情報の差異こそコード化されねばならない。これがアイデンティティへと紡がれて行く。情報の側に立てば、そのようにしてしか情報は情報としてしか生き残れないからである。これあが「物語」の地平である。
演劇の現場から、あるいは演技論として、これをどのように論証したらいいのかとまどうが、まずは「同じになることを誰も望んではいない。違うようにして同じになることを望んでいる」と、ここではいっておこう。
この情報の価値を、もう「物語」などということはできないのであるが、それでもこのネジレトと重層化を物語=情報とするなら、彼なり、彼女なりの「板の上に登らんとするささやかな決意」は、無限にある言語のコード化を図り、世界と和解することではないはずなのであった。
具体
仮説は、やはり関係のコード化を行わないことである。こうなると、ここまで「情報」と呼んできたものは、単に情報量と呼ぶことができる。
さてこのようにして全てを、自身を演劇に召喚できるだろうか。これは極めて困難な作業である。「情報」と呼んできたものは、単に情報量と呼び変えたところでなにも変わりはしない。
問題は、わたしはわたしの情報を獲得し、彼なり、彼女なりの「板の上に登らんとするささやかな決意」どのように構築できるかということになるだろうか。それが一つの演技論であり、表現の幅を広げることが目指されるだろう。
さて、ここからは情報論としての表現論は具体的となる。次にその具体性を掲げるが、その具体性は表現論によって論証されなければならない、とするのがわたしの立場である。これは別項を用意することとし、まずその具体を展開していくことにしたい。
DNSサーバ
セカンダリDNSサーバ
ヴァーチャルドメイン
DHCPサーバ ………Lan内での使用
WWWサーバ (Apache)
タイムサーバ
CGI
PHP
Mailサーバ (qmail)
POP before SMTP
APOP
仮想ドメインメ
FTPサーバ ………ProFTP
SSHサーバ ………openSSH SSH1/SSH2 公開鍵暗号方式
rsync ………openSSHとともにセキュアな同期転送
RDBMSサーバ (PostgreSQL MySQL)
WebDAV ………Webサーバによるファイル共有
squid(透過型キャシングプロキシサーバ) ………Lan内での使用
OpenSSL ………自発行証明書型
グループウェア…Skyboard
メーリングリスト(ezmim)
Namazu(サイト内日本語全文検索システム)
テキストアクセスカウンタ(PHP)
グラフィカルアクセスカウンタ(PHP)
ゲストブック・BBS(PHP)
フォームメイル(PHP)……OpenSSLで送受信を暗号化します
ツリーBBS(PHP+PostgreSQL)……RDBMSのBBS
BBS (PHP+Apache)
投票 (PHP+Apache)
グループウェア・Skyboard (オープンソース PostgreSQL+PHP+Apache)
アンケート (PostgreSQL+PHP+Apache)
電子アルバム (PostgreSQL+PHP+Apache)
ご意見、問い合わせ (OpenSSL+Apache)
演劇archive 俳優・マスコミ・劇場・劇団住所録 (PostgreSQL+PHP+Apache)
Webalizer (Webalizer+Apache)
qmailとMySQL/qmailadmin (MySQL+qmail+tcpserver+vpopmail+qmailadmin+Apache)
趣旨書
【 第1草稿 】
現在、演劇そのものが、情報という一つの交通形態を逸脱できていないなら、表現もまた、演劇という枠組みの中で、一つの関係性を持った情報であることをやめていません。
改めて語ることではありませんが、表現の本質が自己救済に行き着くととしても、あるいはまた、表現が個的な発露衝動に根ざした、きわめて人間的な営為であるとしても、それはやがて見られる自己というものを相対化しなければ、ついに表現が完結しないとする以上、古来、儀式や神事として形式化して社会化した形態は、集団性や共同性を付加された価値を出自にもつ以上、ついにやはり、情報という属性を手放したことはありませんでした。
このようななかで、表現が、情報や社会的価値を手放し、ごく自然にここに在るというなかに十全に棲み付くことを、誰も夢想できません。しかしまた、誰もそうではないと言い切ることもできませんが、ひとえにそれは否定的な物言いであり、可能性を揚言することではありません。
多言は要しません。可能性を見定める方法の欠如は、世界の形骸化に他なりません。なぜなら、形骸化の極北にあるものが必要十分に表現だからです。
さて再び現在、演劇表現の場で、情報の占める役割が大きくなっているのは、私たちが、識別しがたいほどの情報にさらされているからでしょうか。表現そのものが、一つの情報であるということができますが、見る見られるという、舞台と観客によってカタチ創られる、一つの交通形態が、生活の中にありうる情報の交通形態と無縁でないように、同時にまた表現が成就する関係性という交通形態も無縁でないからだ、というにすぎません。表現至上主義を捏造するなら別として、やはりわたしたちの生活の、社会性の在りようは舞台表現とともに世界であるはずです。わたしたちが在るという関係総体が、表現の質を規定しますが、また半面、可能性を行為する実態こそ表現であるということもできます。情報として形骸化する社会的価値を前にして、表現が世界を切り開く、という物言いは在りうると信じるものです。
さてすでにお分かりのように、ここでは「情報」の在りようを「形骸化」と別名し、等式化しています。これは大阪演劇情報センターの仮設です。大上段に新たな表現の可能性、もう一つの演技の幅、あるいは云々と揚言するものではありません。それはできるなら、真摯にわたしたちをとりまく「情報」に向き合い、多くの模索を試みようとする、ささやかな表現営為としての決意に他なりません。(04.03.13)
【 第2草稿 】
現在、演劇そのものが否応なくある位置は、情報という一つの交通形態の中であり、そしてそれを止めることができず、その意志で世界を逸脱できていないなら、表現もまた、演劇という枠組みの中で、一つの関係性を持った情報であることをやめていません。
換言すれば、改めて語ることではありませんが、やはり表現の本質が自己救済に行き着くととしても、あるいはまた、表現が個的な発露衝動に根ざした、きわめて人間的な個的な営為であるとしても、それはやがて見られる自己というものを相対化しなければならず、ついに表現が完結しないのであれば、それらの道筋が、古来、儀式や神事として形式化され社会化をたどった形態であったとしても、集団性や共同性が付加された価値を出自にもつ以上、ついにやはりこれまた、情報という属性を手放したことはない、といわねばなりません。
夢想することは可能でしょうか?いや現在、表現が、情報や社会的価値を手放し、ごく自然にここに在るというなかに十全に棲み付くことを、誰も夢想できません。しかしまた、誰もそうではないと言い切ることもできませんが、ひとえにそれは否定的な物言いであり、可能性を揚言することではありません。
多言は要しません。可能性を見定める方法の欠如は、世界の形骸化に他なりません。なぜなら、形骸化の極北にあるものが必要十分に表現だからです。
さて再び現在、情報という交通形態を抜きに表現世界を思い描くことはできません。演劇表現の場で、情報の占める役割が大きくなっているのは、わたしたちが、識別しがたいほどの情報にさらされているからでしょうか。情報そのものが、一つの表現であるということができますが、見る見られるという、舞台と観客によってカタチ創られる、一つの交通形態が、表現が成就する関係性という交通形態が、生活や社会を支える情報の交通形態と無縁であることはできない、というにすぎません。
表現至上主義を捏造するなら別として、やはりわたしたちの生活の、社会性の在りようは舞台表現とともに世界であるはずです。わたしたちが在るという関係総体が、表現の質を規定しますが、また半面そして同時に、可能性を行為する実態こそ表現であるということもできます。情報として形骸化する社会的価値を前にして、表現が世界を切り開く、という物言いは在りうると信じるものです。
さてすでにお分かりのように、ここでは「情報」の在りようを「形骸化」と別名し、等式化しています。これは大阪演劇情報センターの仮設です。大上段に新たな表現の可能性、もう一つの演技の幅、あるいは云々と揚言するものではありません。それはできるなら、真摯にわたしたちをとりまく「情報」に向き合い、多くの模索を試みようとする、ささやかな表現営為としての決意に他なりません。
ここではささやかな決意を、演劇や表現からのみ見定めるのではなく、社会的な情報のありようを、そのありようの中から観る、という行為の中に置きたいと思います。これが大阪演劇情報センターのNPO法人化の意味です。
これらの作業により情報への行為を行い、情報の私物化、つまりは情報の演劇化を目指すものです。情報の私物化、つまりは情報の演劇化とは、社会性そのものである情報にする表現論化であることを意味します。同時にそれは今あることでする演技論の模索に他なりません。
大阪演劇情報センターは、多くの演劇人に情報の私物化を計らんとする、その始まりの場を提供せんとするものです。この情報に対する模索が、あらたな演技論の創出に道を開くと信じるからに他なりません。言葉を換えれば、表現を相対化しうるであろう情報管理の場を提供せんとするものです。環境と場をよりよく提供することで、新たな関係という情報を捏造し、もう一つのあり得る演技論を模索するものです。(04.04.25)
【 第3草稿 】
現在、演劇が自身を表現であると主張することで、演劇そのものが否応なくある位置は、情報という一つの交通形態のなかであり、それを意志として逸脱できないのであれば、表現もまた、演劇という枠組みの中で、一つの関係性を持った情報であることをやめていません。
これは演技論の一つの形態です。演劇が予期せぬ付加価値として、表現とは異なる地平で情報であることは可能でしょうが、ここには、情報が表現そのものとして流通するということを、演技論を構えて渡り合わねばならないという悲劇が横たわっています。いわば、情報とどのように渡り合うか、ということがまず演技論として問われる、ということになるでしょう。
演劇とは演劇営為そのものであるとするトートロジーに閉じこもることを可能にします。その閉じられた世界を、個的な営為を自立させることによって、トートロジーを瓦解させる可能性を持ちます。それ自体が営為であり、表現行為そのものであるにすぎません。
これらを換言すれば、改めて語る?海箸任呂△蠅泙擦鵑?△笋呂衂集修遼楴舛??糞澪僂帽圓?紊?箸箸靴討癲△△襪い呂泙拭?表現が個的な発露衝動に根ざした、きわめて人間的な個的な営為であるとしても、それはやがて見られる自己というものを相対化しなければならず、ついに表現が完結しないのであれば、それらの道筋が、古来、儀式や神事として形式化され社会化をたどった形態であったとしても、集団性や共同性が付加された価値を出自にもつ以上、ついにやはりこれまた、情報という属性を手放したことはない、といわねばなりません。
夢想することは可能でしょうか?いや現在、表現が、情報や社会的価値を手放し、ごく自然にここに在るというなかに十全に棲み付くことを、誰も夢想できません。しかしまた、誰もそうではないと言い切ることもできませんが、ひとえにそれは否定的な物言いにとどまるしかなく、可能性を揚言することではありません。
多言は要しません。可能性を見定める方法の欠如は、世界の形骸化に他なりません。なぜなら、形骸化の極北にあるものが必要十分に表現だからです。
さて再び現在、情報という交通形態を抜きに表現世界を思い描くことはできません。演劇表現の場で、情報の占める役割が大きくなっているのは、わたしたちが、識別しがたいほどの情報にさらされているからでしょうか。情報そのものが、一つの表現であるということができますが、見る見られるという、舞台と観客によってカタチ創られる、一つの交通形態が、表現が成就する関係性という交通形態が、生活や社会を支える情報の交通形態と無縁であることはできない、というにすぎません。
表現至上主義を捏造するなら別として、やはりわたしたちの生活の、社会性の在りようは舞台表現とともに世界であるはずです。わたしたちが在るという関係総体が、表現の質を規定しますが、また半面そして同時に、可能性を行為する実態こそ表現であるということもできます。情報として形骸化する社会的価値を前にして、表現が世界を切り開く、という物言いは在りうると信じるものです。
さてすでにお分かりのように、ここでは「情報」の在りようを「形骸化」と別名し、等式化しています。これは大阪演劇情報センターの仮設です。大上段に新たな表現の可能性、もう一つの演技の幅、あるいは云々と揚言するものではありません。それはできるなら、真摯にわたしたちをとりまく「情報」に向き合い、多くの模索を試みようとする、ささやかな表現営為としての決意に他なりません。
ここではささやかな決意を、演劇や表現からのみ見定めるのではなく、社会的な情報のありようを、そのありようの中から観る、という行為の中に置きたいと思います。これが大阪演劇情報センターのNPO法人化の意味です。
これらの作業により情報への行為を行い、情報の私物化、つまりは情報の演劇化を目指すものです。情報の私物化、つまりは情報の演劇化とは、社会性そのものである情報にする表現論化であることを意味します。同時にそれは今あることでする演技論の模索に他なりません。
大阪演劇情報センターは、多くの演劇人に情報の私物化を計らんとする、その始まりの場を提供せんとするものです。この情報に対する模索が、あらたな演技論の創出に道を開くと信じるからに他なりません。言葉を換えれば、表現を相対化しうるであろう情報管理の場を提供せんとするものです。環境と場をよりよく提供することで、新たな関係という情報を捏造し、もう一つのあり得る演技論を模索するものです。
大阪演劇情報センターはこれまで、PC-UNIXでのサーバ構築を行い、表現と情報の関係を模索してきました。大阪演劇情報センターのNPO法人化はこの道筋のなかで、PC-UNIXサーバをより開かれた場の中に置き直す、ということを意味します。NPO法人の会員制のなかで、商用利用のなかで、無償利用のなかでと、様々な中にPC-UNIXサーバを置き直すことになります。この意味の内実は今後の展開が付与するしかありませんが、この時点でいえることは以下のことになります。
情報を発信することが、情報が集中することになる。このテーゼを具体化します。データベースサーバを基幹に、会員個々がポータルサイトを構築することを可能にする、と具体的にいえばいいでしょうか。もちろん、この環境は会員に限ったことではありません。より広く求めることによって『情報を発信することが、情報が集中することになる』は実現するでしょう。
やがて、大阪演劇情報センター管理のPC-UNIXデータベースサーバだけでなく、会員管理のデータベースサーバが出現し、さらに………
さて、いまは、大阪演劇情報センターは、この基幹を支えるためのコンテンツやモジュールを用意することになるでしょう。まずは、多くの方々が手軽に利用できる環境を用意することになります。(04.05.28)
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