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 by:大阪演劇情報センター+未知座小劇場更新日:
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大阪演劇情報センター前史 結城 寛

1,「ピーターソンの鳥」

何しろ芝居の現場から離れて久しい僕にとっては古い話である。記憶の井戸を底ざらいし、あまた散ってしまった人と出来事を丹念に拾い集め、パズルを埋める作業を始めなければならない。厄介なことである。僕の中ではすでに事実と思い込みとが分かちがたく溶け合ってしまっており、その腑分け作業は容易でない。酒の席での与太話ならともかく、「史」となると資料に基づいた一定程度の厳密性を問われるわけであるから、そのようなものが手元から散逸したいま、僕には不可能である。よって以下の事柄は自身が関わった芝居集団と大阪演劇情報センターの記憶が絡み合い、時間軸も怪しいと思っていただきたい。ただ「前史」と思われるあの時代、関西の一隅で大阪演劇情報センターをダシに多くの人が交差し、何事か企てようとした日々が確かにあったことを伝えられればと思う。
そもそもの始まりはいつだったのか。1975年、僕が学生だったころ、当時旗揚げしたばかりの劇団「未知座小劇場」があり、そこに何かの縁で関わり始めた時すでに「大阪演劇情報センター」は存在していたように思う。つまり「未知座小劇場」=「大阪演劇情報センター」(以下センター)と言うわけである。少々大げさになるが、座長の闇黒光が関西で新たなる演劇を展開するに当って立ち上げた戦略的組織と言えるものだった。だからメンバーは、あるときは劇団員、またあるときはセンターの運営委員となるので、傍から見るといささか滑稽だった。何をやっていたかと言うと、確か「演劇批評」と言う機関誌を創刊したばかりであったように思う。手元にないのでどのような内容だったかほとんど覚えていないが、巻頭には闇黒光によるセンターのマニフェストが載っていた筈である。他は劇評があったかな。すでに70年安保をメルクマークとした政治の季節は黄昏ていたが、おしなべて文体は政治的言語の言い回しに満ちており、必ずしも読みやすいものではなかった。
やがて具体的活動をとやったのが何故か映画の自主上映である。作品は東京キットブラザースの「ピーターソンの鳥」。監督・東由多加、主演・秋田明大。東由多加はすでに和製ミュージカルで有名人であり、秋田明大は元日大全共闘の議長としてこれまた有名。闇黒光がスポーツ新聞で仕入れてきたネタだった。この異色の映画は必ず当ると踏んで、まだ配給先が決まってないことに目をつけ、東京の東由多加のもとにのり込んだ。体のいい資金稼ぎである。余談であるが、このとき実は僕も上京した一人で、芝居も映画も何一つ知らぬままにノコノコとおのぼりさんよろしくついて行き、埒のあかない交渉の合間にやったマージャンで東由多加とその取巻きに相当かわいがられた思い出がある。「千や二千の客、何とでもなりまっせ。」と風呂敷を広げ、ともあれ何とか関西での上映権を得て勇んで大阪に戻った。ところがこの後が大変。何せ映画の上映会なんか誰もやったことがない上に、どのように客の動員を図ればいいのか分らない。今までやった経験はせいぜい自分達の関わった小劇場のチケット販売程度。なーに、ものめずらしさと明大懐かしさで必ず客は来ると中之島公会堂の大ホールを2日か3日押さえたものの、めぼしい映画サークルを廻るほかはシコシコと手売りの状態。このままではやばいと映画の中でチラリと出てくるマクドナルドに、これも何かの縁とスポンサーを頼みに行くが、あっさりと門前払い。それではとこれまた映画の中で鰐淵春子が乗っている車が日産だからそっちに行こうかとなるが、ビビッてしまい諦めた。そんなことをやっているうちに遂に上映の日がやってきた。悪夢のように客は入らなかった。大ホールを暗闇が不気味に埋め尽くし、外は恨めしく雨が降っていた。何人入ったか? 今はただウン百人とだけ言っておこう。結局場所代を払い、フィルム代を値切り倒し、何とか赤字を免れたものの、手にしたものは和文タイプライター一台に終わったのである。

つづく(2001.12.01)

2,東京外大「日新寮」

興行的には失敗に終わった映画だが、とにかく負債だけは抱えなかったことにメンバーは一様に安堵した。
(一昨年、東由多加氏は長い闘病生活の後、お亡くなりになったとのこと。ご冥福をお祈りすると共に過日の非礼をお詫び致します。)
さて、実体としてのセンター=未知座小劇場のメンバーは本来の芝居屋に戻って稽古を始めたのだが、第三回公演をまじかに控えたころ東京のテント劇団が制作にやってきた。
「曲馬舘」だった。
唐十郎の「紅テント」、演劇センター68の「黒テント」、山崎哲の「つんぼさじき」等多くのテント芝居が活動していたこの時代、最もアナーキーかつ戦闘的な芝居集団であった。(なぜか山崎哲はこの頃のことを自分の経歴から抹消しているようだが。)
制作を手伝い互いの芝居を見るなかで僕等は次第に深く関わっていくことになるのだが、彼等の舞台は今振り返っても非常に印象深いもので、一種悪夢であった。
燃え上がる炎、縊り殺される鶏の声と撒き散らされる血、客席を走り回る豚、肥桶を担ぐ天皇ヒロヒト…。何よりも驚かされたのは異形の役者達だった。この手の芝居によくあるそれらしき仕草と過剰な台詞とで、ひ弱な演技をごまかしている者は誰一人いない。彼らの日常性は見事に断ち切られ想像もつかせず、まさに己の全存在かけ真っ直ぐに観客に立ち向かってくるのである。こんな芝居があったのか。「紅テント」なんて所詮「宝塚」のアングラ版じゃないか。正直なところ怯えが走ると共に観なければいいものに出会ってしまったと後悔?もさせられた。表現としての芝居にいささか斜に構えていた僕とっては本当に正面から向かい合う契機となったのである。
役者紹介も終わり腰を上げようとしたとき、座長の挨拶ともつかないアジテーションが始まった。なんとこの芝居を持って東京外国語大学「日新寮」(日進寮だったか?)に突入するというではないか。何のこっちゃ!? 「よし!」、「異議なし!」という声が客席からとび、松明をかざす役者たちの張り上げる劇中歌がそれに重なる。「♪死んだ馬にまたがり〜… 涙橋を渡って…オペラの街へ行こう♪」薄暗いテントでは異様なフィナーレを迎えていた。
どうやら東京での公演はすごいことになるらしい。興奮さめやらぬ中で僕たちは東京行きを決めたのだった。
東京外大「日新寮」は当時中野区にあり、その敷地内にある庭はテント芝居をやるには格好の場所で、曲馬館以外にも流山児の「演劇団」や「つんぼさじき」等も公演を打っていたようである。日新寮自体は寮生による自主管理におかれ、老朽化を理由に大学当局から廃寮、退去の通告を受け、いつ当局と警察権力による強制執行を受けるかもしれないという非常に緊迫した状況下にあった。
確かに建物の老朽化は進んでおり、雨漏りはもちろんそこらじゅうの床が抜け落ちて、畳の代わりに草の生えている部屋もあるし、テントを立てる前庭もこれまた草茫々。学生とはいえよくこんなところに住めるなと思ったぐらいである。しかしここは学内の政治拠点としての意味あいも多分にあって、当局の廃寮攻勢は老朽化ばかりが理由でもなかった。
曲馬館には「芝居」=「場所」=「生活」という集団理論があり、その公演地はたとえば「水俣」であるとか公演を行う場所にこだわりがあり、ただテントが立てられる場所さえあればいいという利用主義から脱して、社会的矛盾が拮抗した現場に自らの表現を持って登場し、共闘すると共に表現の内実も鍛え上げて行くやり方である。当然日新寮もそのような文脈上にあり、廃寮闘争への主体的関わりだったと言えよう。
しかし、テントをもって寮に乗り込んだあたりから雲行きが怪しくなってきた。寮生たちと「廃寮闘争と芝居」を巡って討論していくうちに深刻な対立が出てきたのだ。
端的に言うと、寮生側は廃寮闘争を担うのは自分たちが主体であり、曲馬館はあくまでも支援という立場を明確にし、自分たちに従うべきであるというもので、主体を共有すべきだという曲馬館の主張を認めなかった。つまり今芝居ごときで当局を刺激し実力排除の機会を与える勝手な行動(既に曲馬館は当局の介入を予想して前庭にバリケードをたてていた)はゆるさんゾということである。このあたりはこちらには伺い知れない当局との政治的駆け引きが見え隠れしていた。
何度目の議論であったろう、深夜ついに互いの意見は決裂し、寮生側の脅迫的な罵倒とと共に我々支援者を含めた曲馬館は建物から追い出されてしまった。混乱した頭を整理することもできず所在なく前庭でたき火を囲んで夜を明かし、始発電車で稽古場に戻った。
実のところ僕たちの方も状況がつかめないままここまできていた。曲馬館の公演が権力によって不当に弾圧、排除されようとしている、これは表現の自由に対する挑戦だという短絡的な状況把握であったが、事態は学内外の政治党派も絡んで複雑だったらしい。
寮生から追い出され仕方なく稽古場に戻った曲馬館は内部討論の後、テントを放置して帰還したことを自己批判し、ヘルメットをかぶり角材で武装し公演の貫徹を目指して日新寮に引き返すこととなった。
そこには修羅場が待っていた。当然テントをを取り返しに来るものと警戒していた寮生と衝突、これを実力で排除し中庭に突入占拠したが、周囲を徘徊していた私服刑事から連絡が飛び、あっという間に警官隊に包囲されてしまった。退路を断たれた彼らは全力で正面突破を試みたが、ほとんどのメンバーはその場で捕まってしまった。寮に突入してからこの間一時間程度の出来事だったが周辺の道路は規制で渋滞し、辻々には機動隊員と制服警官が検問を張り逃走者に目を光らせていた。(タオル、軍手を持っている人間が狙われた。)
僕らは彼らと行動を共にすることはできなかった。最後の最後になって突入するバスから降りてしまったのだ。この時点で大阪から行ったメンバーはいろんな事情で6人から2人になってしまっていた。忘れもしない中野の丸井デパート前であった。最終確認がとられ突入部隊と芝居を見に来る客に対しての状況説明をする支援の側に分けたほうがいいとなり、僕らは支援の側にまわることに。闘う相手が違うのではないかという思いが、ぎりぎりのところでゲバルトに踏み切らせなかったのである。寮生に対してそこまでの憎悪もなく、それによって逮捕されてしまうことにも了解できなかったし、後のことは自分で責任をとれよともう一人の仲間にいわれたとき、結局びびってしまったのだ。
警察の検問を逃れ、中野の駅前の商店街で急遽集会を開き、カンパをいただき、後はひたすら不慣れな夜の東京を逃げまどった。そして翌々日大阪に帰り着いたのだった。

つづく(2003.01.30)


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