更新日付:2017年 09月 10日(Sun) 11:20:58 AM
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闇黒光演劇論集 1990年代
エーテル(ether)の三姉妹企画書
演技について
『エーテルの三人姉妹』から
「 エーテル(ether)の三姉妹 企画書 」
(1999.06.09)
[作者・演出からの企画意図]
闇 黒光
光がまだ波であったころ、絶対空間はエーテルに満ちていた。ニュートンはこの不可視の、不可視であるがゆえの架設によってニュートンであることができた。ほぼ二百年の後に光は粒になったが、さて、その筋の業界では、このアインシュタインの相対性理論を得ることによって、劇的な展開をむかえるが、このわれわれの生活は?
もちろん、ゲーデルの不完全定理が成ることによって、ソシュールの言語論なしには、門外漢ながら、この今という現実と生活と文化がありえないことは類推できる。パソコンのクラシュはなぜだと考えるが、受話器を持って、なぜこの電話はかかるのだと考えぬほどにである。すでにわれわれにとってテレビは集積回路の結晶ではなく、テレビはテレビである。それ以外ではない。自身に引きつけていえば、日々行われる演劇の舞台とは関係なしに、いや関係などという概念の外で、サラリーマンはサラリーマンで、大工は大工であることができる。できるというのがおこがましい程に。
わたしはここで、大江健三郎が実存主義からひぱりだしたように「文学は飢えた子のまえで有効か」などと自問しようというのではない。また、エーテルがエーテルであり得た時代は、仮説と生活がねじれながらも、よりよい物語をかたちづくっていた、などというつもりもない。
ただいま物語は、回路などという脈絡をうしなって久しいということすら遠い。ねじれ千切れ、拡散し霧散しているだけである。グツグツと腐臭の臭いをはなちながら。
このとき、わたしはわたしのエーテルを、人知れず悟られぬように捏造する。この捏造は二つの意味を持つ。
架設、展開、生活、仮説、演劇等々のこれらの語彙を物語りと読むことによって成立させたエーテルを物語ではないと証明でもしたように視覚化すること。換言すれば、物語など論外という秩序、道徳、倫理を空気のようにさしだすこと。よってエーテルをエーテルたらしめる。
これは演技が支えるしかないのだが、今回の舞台は出自の異なる女優になる。このとき果たして時間を無視して、演技を糧に関係は共有されるのか。されるかされないかが問題なのではなく、この問い自体が、集団論を軸にした物語であろう。では、演技はいかなる回路で自立し、関係を模索しうるのか。
またしてもモチーフ演技論に集約される。
道筋は二重三重にねじれている。それがわたしの現在なら、そこから始めるしかないだろう。
演技について
『エーテルの三人姉妹』から (1999.06.09)
「 台本まえがき・演技について 」
ネタ本を最初に明らかにしておくのも悪くない。そうすれば少しはこちらの気も楽になる。書くことのアイドリング。
やること、つまり書くこと(想念)は、ハッキリしている。三人の俳優が楽しく「遊ぶ」ということ。ここで「遊ぶ」という言葉を使うと、手垢の付いたものになりそうで、危険なのだが、まずはそういうこと。この危惧を払拭すべく過日、次のよううな一文を企画書というかたちで提出した。
[作者・演出からの企画意図]
光がまだ波であったころ、絶対空間はエーテルに満ちていた。ニュートンはこの不可視の、不可視であるがゆえの架設によってニュートンであることができた。ほぼ三百年の後に光は粒になったが、さて、その筋の業界では、このアインシュタインの相対性理論(一般云々は問わないでいただきたい)を得ることによって、劇的な展開をむかえるが、このわれわれの生活は‥‥?
もちろん、ゲーデルの不完全定理が成ることによって、ソシュールの言語論なしには、門外漢ながら、この今という現実と生活と文化がありえないことは類推できる。パソコンのクラシュはなぜだと考えるが、受話器を持って、なぜこの電話はかかるのだと考えぬほどにである。すでにわれわれにとってテレビは集積回路の結晶ではなく、テレビはテレビである。それ以外ではない。自身に引きつけていえば、日々行われる演劇の舞台とは関係なしに、いや関係などという概念の外で、サラリーマンはサラリーマンで、大工は大工であることができる。できるというのがおこがましい程に。
わたしはここで、大江健三郎が実存主義からひぱりだしたように「文学は飢えた子のまえで有効か?」などと自問しようというのではない。また、エーテルがエーテルであり得た時代は、仮説と生活がねじれながらも、よりよい物語をかたちづくっていた、などというつもりもない。
ただ、いま物語は回路などという脈絡を失って久しいということすら遠い。ねじれ千切れ、拡散し霧散しているだけである。グツグツと腐臭の臭いをはなちながら。
このとき、わたしはわたしのエーテルを、人知れず悟られぬように捏造する。この捏造は二つの意味を持つ。
架設、展開、生活、仮説、演劇等々のこれらの語彙を物語りと読むことによって成立させたエーテルを物語ではないと証明でもしたように視覚化すること。換言すれば、物語など論外という秩序、道徳、倫理を空気のようにさしだすこと。よってエーテルをエーテルたらしめる。
これは演技が支える(正確には演技が支える舞台)しかないのだが、今回の舞台は出自の異なる俳優になる。このとき果たして時間を無視するようにして、演技を糧に関係は共有されるのか。いや、されるかされないかが問題なのではなく、この問い自体が、集団論を軸にした物語であろう。では、演技はいかなる回路で自立し、関係を模索しうるのか。
またしてもモチーフは演技論に集約される。
道筋は二重三重にねじれている。それがわたしの現在なら、そこから始めるしかないだろう。
仮設と、三人が「遊ぶ」と言うことはどう共存していくのか、いや共存しうるか。書いている本人が「共存しうるか」などと自問するなど可笑しなものだが、わたしの場合、舞台が生き物であると同じように、台本も言葉であって生き物に等しい。行き当たりばったりといえばそれまでだが、想念を台詞という言語に仮託して、そのようにしておいて仮設をからめ取って何かに至ろうとするなど、論文と違うのだから、所詮無理難題なのであって、出たとこ勝負でいくしかないのは論を待たない。だがさて、言語の向こうに仮設だけがあったとして、はたして想念が成就するか。まあ、そんな簡単なものではない、と言い放つことに躊躇いはない。
一般論はさておき、わたしの場合はすでに想念が仮設ににじみよろうとするこの第一歩ですでに間違うのだ。そうじゃない、違う、ということになる。詩人が決定的な一言を紙上に刻む、それが物、それが想念だ、と言うわけには行かない。まず想念があるのだ。ここでは筋道は見えている。この「そうじゃない、違う」から「そうだ」に向かって時間が費やされる。となればめっけもので実は「そうじゃない、違う」からもう一つのそれも「そうじゃない、違う」をみるのだ。だから、そのそれも「そうじゃない、違う」という無限地獄。
台本が言葉であって、台詞は言語。わたしはここに落とし穴があると思っている。そんなことはないが、この逆なら抜け道はあるだろう、と思う。文字が原稿用紙の升目を埋める時、文字が言葉に変身し勝手気ままに動きまわられたのではたまったものではない。文字を調教し、飼い慣らし、手綱を引き締め概念にして台詞にしなければ先には進めない。
一点、台本という言葉?砲垢襪燭瓩任△襦?
台本は呼吸をはじめる。 リアリテーを求め、説得力を模索して俳優を求めるのだ。
さて上記レトリック総体を凌駕して想念は屹立するが、舞台という総体からすれば、戯作者の想念など取るに足りぬものだともいえる。こうして総てであって総てでないこの戯作者の想念に、演技と関係と物語を盛り込むことになる。
ここまできても敢えて綴るが、仮設と想念は論理的帰結とはしない。仮設は想念をあぶり出すのだ。こうなると仮設は単なるアイデアということになってしまうか。むしろ、この地平での想念が思いつきであり、アイデアなのだ。いい切ってしまえば、人は書きたいものがあるから書くのではない。そんなバカなと言われそうだが、人は想念があるから書くのだ。ではこの想念が書きたっかたものか。そうであるがそうではないだろう。そこから出発するが、書くという行為が実践である以上、思考によって想念は変容する。変容することによって想念は概貌を現す。そこに書きたかったものが立ち上がってくる。想念は書くという行為に突き動かされて発見という作業を体験する。そして最後に言うのだ。これではあるが、やはりこれではないと。さてこれは演技についての話であった。
このような作業が論理的にすすむなどと思ってもいない。仮設と想念と三人の俳優。
これでネタ本に辿り着いたことになる。想念が、ネタ本によって一つ具体化したと思えたということになるだろうか。だがまた今回も、演劇関係の磁場のなかで何かが刺激されたと言うことではなかった。
ここしばらくのあいだわたしは、いわゆる「物語」について色々思いをめぐらして来たのだが、その物語をゲーデルの不完全性定理と、ソシュールの言語論とアインシュタインの相対性理論をごちゃまぜにした想念らしきところで足場をつくり、物語との距離をみようとした。
「なんのこちゃ」と言われるのは請け合いだが、そこは一介の戯作者の戯言と読み飛ばしてもらうとして、ゲーデルの不完全性定理を、それ自身が無矛盾であるとき、それ自身が正しいと言うことを証明できない、つまり「一人のクレタ島人が言った。すべてのクレタ島人は嘘つきだ」のあれである。またアインシュタインの相対性理論といても光は波でなく、粒であると言ってしっまった。こんなところであって、その証明数式など頭が痛くて読めたものではなっかた。ただその歴史的経緯と位置、そしてその価値には今も興味は尽きない。ソシュールの言語論にしても、こちらの領域にちかいものの「言語とは常に恣意的なものである」というところから思いを巡らし続けているにすぎない。共通するのはなにか、といえば「すべては疑いうる」ということ。そしてそれがより証明という言葉に近いこと、である。もちろんそういうところで物語は自身をどのよう語るのかと、ということであった。
そんななかで過日偶然、立松和平著『光の雨』、高沢晧司著『宿命』、大塚英志著『「彼女たち」の連合赤軍』をまとめて読む機会があった。この三点とも一九七二年前後に起こった事実に起因してのそれぞれ世界である。?は小説?はドキュメント?は評論なのだが?が最も物語を信じようとすることによって、事実の羅列をみる表層に陥り?はルポによるこの時代の総括にもかかわらず、シェークスピアのオセロ役者が裸足で逃げるだろう
「すべては、すべてはもう遅すぎる」という台詞を主役に独白させる物語に滑り落ちる。またはなぜこのように物語を渇望するのか、それも自分の器にあわせる事がすべてであるかのように。これらを突き抜けてエーテルという物語はどのようにとぐろをまいているのだろうか。
そんな思いを頭に引っかけていたとき、思わぬ一文に出会った。引っかかりを違う側面から照らされたという思い。柄谷行人の文庫本に東浩紀という人の書いていた解説文。上手にまとめるもんだなあと、素直に思う。ということはこの彼は、一つとして柄谷行人のさきの仕事をしているということになるのか?気になったのでインターネットの検索サイトに東浩紀を打ち込むと、こんな売り文句に出会った。
『鮮やかな、まことに鮮やかなジャック・デリダ論の登場である。浅田彰をして「『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなった」と言わしめた著」ということなので、台本あげて読んでみることにしよう。
以上で、ネタ本を明らかにしたことになる。
「 台本後書き 」
台本が上がっての直ぐの後書きには、綴らなければならぬなにかが、いかほどもあるものではない。醸造を誹らぬ顔で待てばいい。やがてもう一度(一度かどうか正確でないが)慌てふためく時間が来る。といっても、この台本を手にとている方にはやはり、次のことどもをお読みいただきたいと思う。それは「大日本演劇大系」について少々のこと。
過日CDーRΟM版の「大日本演劇大系序の章『明月記』」の後書きに次の文章を改めて起こした。
【『明月記』CDーRΟM版あとがき・大日本演劇大系について】
この台本はタイトルがしめすように、何章かの一つとして企てられた。演劇と呼ばれるものを、最大限解体し、一つ一つ検証していく作業を全体として構想したのである。なぜそのような大層を考えたのかと問われるなら、この舞台の初演の十数年前の時代と、それに至る演劇状況がわたしをそう導いた、とここではいっておきたい。演劇はすでに解体していた。
この制約のもとに、この台本で用意した台詞はほぼ九〇%、わたしが一九七二年の旗揚げ以来、未知座小劇に冗筆し、上演した舞台からの引用でなる。
引用で舞台を構成しようというわけである。脈絡を断つ。時間という構造を拒否する。いわば物語の無化ということになる。この思いは、引用で舞台を構成し、脈絡を断てば物語が無化されるとは露ほども思わないが、そのようにしてこの『明月記』の、わたしの最大の関心事である「演技とは」にかかわる作業を集中的に展開するための場として仮説し、方法とすべく選び取ったのであった。
出演者は二人。
若干の注釈を付け加えるなら次のようになる。
わたしはピーターブルックが「なにもない空間」のなかでいうように演劇が、舞台のうえに一人と、それをみるひとが一人いれば成立するとは考えない。それは表現として成立するであろうが、そこに演技はない。したがってピーターブルックがいう舞台は演劇の舞台ではない。
わたしならこういう。舞台に二人の俳優とそれをみるひとが一人。これが前提となり、二人の俳優の間に行為が展開されることが目指される。これではまだ二次元であり、さらに二人の俳優によって展開された行為が、みるひととの間で関係として共有されたとき、演劇として成立した表現の舞台となる。補足するなら、このとき俳優は役者に成ったのであり、みる人は観客に成ったのである。先駆して役者も観客もない。演出とは、ということどもは別稿を起こさねばならないが、わたしはこの三次元総体を力場と命名している。
ここで演技とは何か、をいいきっておかねばならないが、前述にならって架設するなら、それは、みるひととの間で関係として共有された、俳優によって展開された行為の内実、ということになる。したがって渡辺保が歌舞伎俳優を念頭に置きながらも「演技とは芸のことである」というとき、それは論外であるというしかない。いっておくが、だからといって演技は、観客のみに体験されるものではない。演劇の演劇たるゆえんであると思うが、俳優は対他者を追体験する事によって、演技を体感する。対他者を追体験するとは、自己の可能性を生きようとすることであり、自己のこうでしかない身体を相対化しようとする、極めて演劇的作業としての試みである。
大言壮語の、断定から断定を渡り歩くことは物議を醸し出すだろうが、大日本演劇大系・序の章のあとがきということで黙許願うとして、前述のように、大日本演劇大系の出だしとして、関係としての演技を設定したのだった。さらに関係としての演技を相対化するものとして『明月記』では登場人物を一人とした。一人の女を二人の女優が演じる。密室に閉じこめられた女が自身と向き合うの図である。関係としての演技を一次的な作業とだけとするのではなく、より本質的な作業仮設にしようとしたのであった。
この想定には「一人芝居」といわれるものへの目配りもある。前述の推論からすれば「一人芝居」という語は形容矛盾である。やはり出発は二人の俳優、そして演技とはであり、これ以外ではなかった。それ以外の出発はあり得なかった、といまでも考えている。
すべてはこの「演技とは」というこの一点から出発できる。
とはいうものの、今回この「CDーRΟM版あとがき」を書くにあたって台本を読み返してみて思うことは、「演技とは」の一点突破というには、少々おこがましい。一つ一つ検証していく作業を全体に配布して、それを「演技とは」という地平から展望するというようになっているようだ。まさに序の章と言うべきか。
いずれにしろこの後、大日本演劇大系は『独戯・番外』と『第一章・レスピレーター』を産んだ。
『独戯』は俳優一人の舞台で、一人芝居を反措定として独戯を再考したものであった。また『レスピレーター』はテントでおこなわれた舞台であった。物語論としておこなわれた数回の舞台の終結の位置を占めるものであった。
以上が大日本演劇大系のこれまでである。第二章が展望されているが、今年中にものにしたいというのが現状である。
さて、多くを語るよりも‥‥この『明月記』は上演ごとにその標榜を換えてきた。この上演順の台本を羅列すれば、それこそがここでいうすべてを語りはじめるだろう。まずは、そのようなCDーRΟM版を用意することを約束したいと思う。
また、大日本演劇大系の他の章のCDーRΟM版が提出された際には、これもお読み頂ければ望外の喜びとするところです。(一九九九年二月二四日記)
この引用で事足りる。現在のことどもは「前書き」なり「企画意図」で示しえていると考えているのだが、右記文の一部には若干の後日談がある。
文中は「第二章が展望されているが、今年中にものにしたい」ということであった。で、この台本となったが、今回のタイトルは「大日本演劇大系第三章」なのである。この間に、かつて第二章があったと指摘をうけ、考えて思い起こしてみると、確かにそうなのである。二章が行方不明なのである。つまり今回がわたしの頭のなかでは第二章なのであるが、すでにこの第二章はどこかにあるのだ。これも事実である。
これを単なるポカということで済ますのはたやすいが、どうやらそういうことではないようなのだ。やり切れてないのか、抹殺したいなにかなのか。
いずれにしろCDーRΟM版の「大日本演劇大系」の位置づけからすれば今回は「言葉、関係、演技」の模索ということになり、それらを称して「エーテル」とうそぶいた。さて、この「物語論」から「エーテル」の間はあるのかないのか。今のとこ定かではない。
最後にこのプロデュースが組まれ、機会が与えられたことに感謝してやまない。
(一九九九年六月九日記)
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