無限と一瞬は排他対極概念であるということに、もしあなたに同意していただけるなら、もちろん一瞬の中にこそ無限は存在する、というレトリックをも含めてもいい、それでも同意していただけるなら、無限と一瞬の排他対極概念は、今無化され続けているということになる。これを、情報は行為され続けている、と言い切ることにしよう。
わたしはこれが情報の現在と考える。情報は垂れ流される、ではない。情報はヴァーチャルであることによって実態を獲得する、でもない。またもちろん、情報を求めるための情報が、今情報である、でもない。
誤解を恐れず綴るが<類・DNS≶は情報の演技論なのだ。
ここであえて演劇用語を用いて綴る必要はないのだが、次のように強引に歪曲することをお許し願いたい。演劇表現の概念を借用すれば「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」なら、新たなる価値と概念が生産されたことになる。ここでは演技が行使されたといえそうだ。演技とはそのような行為である。
演技を行使したもののことを役者という。演技が行使されたとき、わたしたちは観客席で 観 客 に な ることができる。その瞬間、わたしたちは観客になったのである。この意味で、演技とは、新たなる価値と概念を生産する行為をいう、といっていい。平たくいえば、明日という可能性が事実されたのである。そのときわたしたちは観客席で新たなる価値と概念に立会い、役者としてたち現れた身体の個別性に、観るということを行為して観客にな るのである。
余談だが、芝居を観にいくことはできるが、観客になることは難しい、という論旨になっている。すると、純粋培養しだいでは観るということのプロがいる、ということになる。さらに、演技論がありえるように、観技論があるのだろうか。
そんなことはないのでそれは、より多く舞台の問題ではなく、わたしの側の問題であるだろう。だが、わたしは自嘲をこめ綴るが、ただここにいるだけである。そこに価値と真理があると盲信できるからそうするのではない。それ以外のありようはやはりないのだ。少しばかり大げさにいえば、ここにいることについに向き合うしかないのだ。逆証するなら、わたしはこれまで生きることのプロに出会ったことがない、ということになる。それ は技術ではないということだ。ここにいることは技術ではない。つまり観客になることは技術ではないから、たいそう骨が折れる。
このようにして演技は技術ではないと査証できる。技術でないものに技術が立ち向かっても、関係はついに成就しないからだ。もちろん関係とは情報のことである。こうして、そしてこのようななかで、そしてなおかつ演技が論として求められる。それは思考され仮設された行為であるからだ。行為が論に歩み寄るとき、自ずから体系化を目指すことになるが、だからここで自問が頭をもたげうことになる。体系化を目論むとは、演技の方法化 を 意味する。だがさて、方法論とはより良く技術のことを意味するのではないのか、と。明かに否である。換言しよう。演技が、明日という可能性が事実されたことを意味するのであれば、今の相対化の中にあるなどという柔軟性の中にはない。いまが速やかに、否定される?世韻任△襦L斉?箸い?搬里硫椎柔?鮃坩戮擦兇襪鬚┐覆ぬ鮗圓燭蕕鵑箸垢訖搬里蓮△弔い墨斥?範西擇硫未討法△弔い鉾麩斥?噺??腓辰栃?覆鮓鬚錣垢里澄?覆鵑箸い ? 非合理なことだろう。演技はあらかじめ、このようにして論理と非論理と否論理やらのなかで、ここにあることの身体の動機を研ぐのだ。なぜそうなのだと問えば、それはひとえに、ここではなく舞台にあるということを選択したからであった。選択である。それだけなのだ。だがこの一意の選択はすべての論理を凌駕するだろう。大げさでなくいわざるをえないが、かつてわたしたちの祖先のなの一人のミコが、祭壇の前にかしずくその踵を返 し、祭壇を背にした瞬間からのそこから、今というこの瞬間までの時間の幅が、一意の選択を支えているからだ。

断らざるを得ない語り口だが、これはマニフェストではない。
無限と一瞬の排他対極概念が、無化されてしまう価値のことに他ならない。それはきわめて演劇営為であり演技は行使された、と与太をとばしたくなる情報交換の物語のことである。そしてこの情報の位置を凌駕する演技論を持ち得ていないのが,演劇表現の現状だということについてである。それは能役者が、百年単位の幅を、歩一歩のすり足の中に収めることができるかどうか知らないが、そうであるとして、その演技を凌駕してある演劇 営為はどのように佇んでいるか、検証しようとしているに過ぎない。
さて、だからこのようにいうことができる。これは物語の話である、と。

演技を物語の中に閉じ込めよう。もちろん仮設である。この仮説は次のようにして論証される。情報とはデータのことであり、データとは関係の現象形態である。関係とは物語のことである。ついに物語の最高形態とは天皇制のことである。つまり物語とは情報のことである。
論証という言葉を持ち出したので、これはマニフェストである、とすばやくいっておくことにする。さらに老婆心ながら付け加えておきたいのだが、物語とは集団の別名であり、舞台の別名である。煙に巻くきはさらさらないが、登場人物もでそろったので、情報と演技を演劇的に解決するには、ということになろうか?
過日このあたりのことを次のように書いたことがある。
「さて、情報とはデータの自己実現形態であり、この意味で情報は、われわれの前に表現としてあるといっていい。仮りにわたしたちが様々な情報に取り囲まれているのであれば、多くの時事の中で表現に立ち会っていることになる。決意された具体の前では、息苦しくなるのがわたしたち人間というものであろうが、また同時に、ひとつの決意には、もう一つの決意を対置しようなどとする、ならず者を装うことを止めぬものであるから、息 苦しくもあり、抜き差しならなくもなる。
安寧な日常でもあるまいが、実は、情報という表現の前で、存在を問う自問に破れ、自死に至らんとする美しい光景が氾濫するわけでもないのは、情報がする表現の質が問われているからでも、わたしたちのなんとも頼りのない想像力のなせる業でもない。それはまず、情報が情報として自立することがないからだ。情報は常に、何々についての情報という位置を譲ったことはない。情報は常に修飾語として表現に加担する。
ここまでくると、おかしなもので情報はそれ自体として表現ではない、ということになる。しかしデータは情報として自己を表現する。情報は表現を装う。
わたしたちはこうして装った表現に対峙する暇などないので、情報を取捨選択することになる。やがて情報を求めるための情報が求められる。ついには情報を求めるための情報こそ情況論である、などということになると、そもそもそこにあった情報など、ついにはあなたの背中に張り付いている、などとなりかねない。いや、情報の商品化の速度に見合って、あなた自身が情報になる。これをわたしは情報の超デリダ化論と呼ぶのだが、まあ 、一つの円環を見る。
この総体が情報の演技論である。
これは演技論たり得るか?と、問うなら、仮に、物語とは情報のことである、という演技論を対置する勇気を、少なくとも演劇人は持たねばならない、という語り口は今でもまだ通用するだろう。そもそも演技とは演じる技のことではなく、方法それ自体であるから、論たりうるかということには肯首するが、情報の演技論は軽くそれを打っちゃる。論証するまでもなく表現は、情報に絡みとられて瀕死の呈であることは間違いない。
ここから出発するしかないが、これを日常と位置づけるか、表現が病んでいると位置づけるかで、大いに演技の思想性を分つことになる。いずれにしろ、この状況を凌駕しうる表現の幅が求められて久しい。そしてそれはわたしたちの演劇的な、思想的な現代的な課題である。
知ったふうな口を利くと、表現とは今を生きることではない。また明日を生きることでもない。それは明日という可能性を私権化する抜き差しならぬ試みである。このとき状況が表現であると嘯くのは、表現として無効であるばかりでなく、情況論として破綻している。
ついに物語が情報にたちかえることはないであろう。それほどは歴史の成長過程を信じてもいいであろう。何よりもわたしたちはそのように選択してきたのだし、多くの叡智は注ぎ込まれてきたはずである。」
ここから歩一歩を進めようとするのがこの「演技について」であった。それは情報の現在を明確化することによって、可能であると踏んだのであった。
ここで、いまわたしは「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」ところに情報は佇んでいるとした。この情況論を起こすには別項を用意しなければならないが、ここでいう「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」ということは、一つに時間を喪失したということではなく、時間が無化したということなのだ。さらに、情報がヴァーチャルを装うことで、力場をも 無化したのである。この意味は、このようにいうことでわたしたちの現状を、逆照射する。
場も時間もない物語などない。
換言するなら、わたしたちの物語はそうしてある。このときこの情報論を、まだ物語と呼ぶことはできるのだろうか。さらに独白すると、わたしはこの情報の位置を相対化する、演技という表現の幅を持ちえていない。たとえば、演技は舞台にある俳優たちの行為する関係性のなかで具現するが、それは練習という反復作業の結果、訪れるなら訪れるものなのだ。これは、時間と付き合うということを意味している。作業は極めて古典的な物語 の枠内にある。あえて具体的に極論すれば、作業のより多くの時間は、関係を行為しようとする仮説作業の中にあるのではなく、その行為することのリアリティ獲得に、より多くの時間が割かれることになるだろう。仮に一つのあるリアリティ獲得がなったとして、明日またそのリアリティが保障されるという根拠は、どこにもないのである。つまり、関係の中にリアリティを獲得しようとするとは「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別な こととしてではなく、無化される」ことにあがなうことになる。ここまできてもまだいうが、わたしはそれでもた「だここにいるだけである。そこに価値と真理があると盲信できるからそうするのではない。それ以外のありようはない。少しばかり大げさにいえば、ここにいることについに向き合うしかないのだ」といわざるをえない。
これが情報という物語に向き合う演技の位置である。多言は要しないが無化には、自己無化を対置すればいいのである。問題はその論理化作業である。そして、ついにいわざるをえないが、これは論理矛盾である。逆接が逆巻いている。「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」とはすでにゲーデルの不完全性定理ににて回答不能である。であるが、さらにわたしは論理家でもないので、上演台本としてそ の文体をドラマツルギー化することになる。それは「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、一人のクレタ島人が言った」を、演劇営為として解決するだけなのだ。

わたしにはここまで、鉄扉面よろしく物語とは情報のことである、をテーゼのように抱えながら文意を進めてきた。そしてついにもう物語と情報が等記号で結ばれることはないと断言した。その右辺と左辺の乖離こそ、情報の現在であり、表現としての演劇情況なのだと声だかにしたのであった。情報の中で表現は溺死状態である、と思いを差し出すことにもなった。このとき、物語と情報が等記号で結ばれていたのはいつだ、と問うことには まったく意味はないだろう。
構図はこうだ。問いかけるもの自身の問題としてまずある。わたしがそれを問うなら、河原者の時代である、あるいは1960年代後半から70年にかけて、などというかもしれない。これはわたしの昨日と今をいっているに過ぎない。つまり問うものの数ほどある、というのが構図である。情報の現代が、それらを照らしだすだけなのだ。
まとめに入る事にしよう。まとめることが可能であるならば、そのようにしよう。だがこの「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、一人のクレタ島人が言った」そのいったクレタ島人は、嘘つきなのか嘘つきでないのか、やはり回答不能なのである。
演技論のみがこの状況を行為しうる。なぜなら、繰り返しになるが「演技が、明日という可能性が事実されたことを意味するのであれば、今の相対化の中にあるなどという柔軟性の中にはない。いまが速やかに、否定されるだけである。明日という身体の可能性を行為せざるをえない役者たらんとする身体は、ついに論理と論証の果てに、ついに非論理と向き合って抱擁を交わす」からだ。可能性は演技論を糧に、役者たらんとする身体の側に ある。演劇表現の可能性などというと、口はばっ?燭?覆襪?△佞鵑?辰討修里茲Δ鉾?世垢襪海箸鬚茲靴箸靴茲Α?
ここまできても、可能性はわたしの中にない。あるのは役者たらんとする身体、の側にである。一つの選択とは、やはりそれほどのことを意味するだろう。それを支えてあったのは極めて個的な表現衝動であった。
これが差し出すこの拙文の構図である。すべてを無化する情報の前で佇んでいるのは、極めて個的な表現衝動である。
最後にこの構図を一般化することでこの拙文を閉じたいと思う。いま情報は、無限と一瞬を手中にすることで、すべてを無化するのだから。
そこでは「9.11」はどうだったのだろうか。あえて綴るが、このように問う意味はどこにもない。特筆して「9.11」がそうだというのではない。「阪神大震災」しかり「サリン事件」しかりである。だがもちろん、これらの事件は「演劇」を変えるかと問うことはできるだろう。事実そのようにあった。ある弔意を伴って綴るしかないが、その問いは「不遜」である。また、わたしたちの現場はそうヤワではない、というしかない。こ れがすべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。「無限と一瞬の排他対極概念が、なんら特別なこととしてではなく、無化される」とき、情報はそのようにたち現れていない、ことだけは確かである。
すでに情報は物語ではないのだ。情報は物語を装うことしかしない。ブラウン管のなかの画像や、デジタル化された信号はついに現場ではない。だから、こちら側で何かを読み取ろうとしたとき、あまりの情報量の多さに驚愕し、とどかななっかたであろう幾倍の情報に思いをはせ慄然とするだけである。でもなおかつ、それらの情報はこちら側に物語を要求する。正確には、わたしはわたしのアリバイ証明を生産する。ではあえて、対峙する 世界の中で古典的な物語を存在証明として生産する意味はどこにあるのか。これも再び繰り返しになるが、意味と根拠はない。昨日までそうしてきたので、今そうするのだ。これを思想家ぶって情報の権力構造とたかをくくっても仕方がないだろう。
舞台の側からいえば、仮にそのような情報の権力構造があったとして、それを相対化しえぬ演技論の不在こそ、演劇表現にこだわるあなたの、そしてわたしの責任性として問われるしかない。しかし、さらにここまできてもいってしまわざる得ないが、演技論の不在や責任性と綴ることが、すでにそれが物語であるということは、いわざるを得ないしいい過ぎることはないだろう。
きっと世界は、梁や棟の下で無為のうちに息絶えることしかなかった無念の死、そこにしかないはずである。そしてささやかであるが、幾多の無念の死に、すべてを無化する情報にあがなって佇んでいるのは、役者たらんとする極めて個的な表現衝動であることも、また疑いないのである。(文責/闇 黒光・未知座小劇場 2002.04.04)

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演技について・サーバ構築のすすめ (2002.05.25)


何々の”すすめ”や”入門”などに出会うと、どうしたものかとフト立ち止まってしまうのだが、さてかくいうわたしはすでに、ここで立ち止まっている。

立ち稽古での話しであが、とある演出の、いうに事欠いた「とにかく騙されたと想ってやってくれ」などという暴言で、その場が最悪の事態に落ちいるのは良くあることで、それは騙ることを生業とする俳優に向かって、こだわりや主義主張を捨て、行為 してくれというのだから、絵に描いたように窮まって最悪である。前後の位置づけや脈絡を捨てて、行為を要求するとは大胆不敵で、押しつけられる側にしてみれば、彼や彼女らのこれまでの人生経験を総動員して、マニアルらしきものを流してみるという ことになる。前後の脈絡や時間的な飛躍を意図するわけではないので、器用な俳優は、ここでいう器用は、器用な俳優という意味にとどまらず、何かにつけ一般化の手順を会得しているということになり、人付き合いが上手ということにもなるが、それなり に場を絵にしてしまう。これに比べて、いわゆる不器用な俳優は、すでにもういたたまれない。一般化の手だてが瞬時に用意されなかったのだ。
一般化の手だてを探るとは、莫大な時間が浪費されるかもしれない稽古の積み重ねによって紡がれる、彼や彼女らの何かの一つであるから、自身に対する納得とともに、他者に対する説得力を得ようとする、何らかの関係を求めるための試行錯誤のことで あるから、それを瞬時に組織してくれというのが、あらかじめ不可能なのである。
いたたまれないが、「とにかく騙されたと想ってやってくれ」などと要求する仮説行為が、一般化されてあるはずがない。一般化されていないから、仮説がたくらまれるわけで、その仮説を、論理と価値の有り様として行為の上に預けることができるなら 、取りあえずやってみてほしいなどという試行錯誤はない。ではなぜ、こちらの仮説を、相手にはひらめきにも似た「すすめ」として、丸飲みを要求するのか?

わたしはこの「すすめ」の枠を「コマーシャル」やあるいは「メディア」まで広げてしまい「情報論」として展開すべきだという誘惑を、なだめすかしながら綴っている。そうである限りはみ出てしまう部位もあるだろうが、まずこの「すすめ」の位置だ 。つまり「すすめ」の内容が一般化してあれば、「すすめ」などというお節介はない、ということだけはできよう。また、すでにあなたが「すすめ」の内容にに興味があるのであれば、それはもう「すすめ」の術中にあるのであり、必要なのは「すすめ」で はなく「マニアル」ということになる。お節介……
だがさて、フト立ち止まる本当はもう少し違うこだわりとしてある。
語気あらげていえば、この「すすめ」には教条性がつきまっとている感を拭いきれない。ついに「いいからやってみたら」ということから離脱できない。そもそもいいとは誰が何の基準で判断するのか?それは言わずもがな「すすめ」る側である。この基 準と判断を一般性として論理化し、価値として提出できればその「すすめ」は、相互の関係で納得して成就する。が、そんなことはあり得ない。万有引力の法則を説いているわけではないので、やはりあり得ないのである。
あり得ないことの論証を抜きにして文意をすすめることは、客観性や誠意がないとは思わない。わたしたちの社会生活のことだということで十分だろう。蛇足だが、だから表現があるのであり、目的意識的な人間営為があるのでなかったのか?
このような中で「すすめ」の道筋を図式化してみれば、多かれ少なかれ、提出した基準と判断を受け入れてもらう側の器に巧妙にあわせるか、あるいは、これまでと違ったかたちに、提出した基準と判断にあうように、何かを強引に変容させなければなら ない、ということになる。説得するのではない。条件をずらすのである。そうすることで、提出した基準と判断は、器にとっての価値となる。するとあなたは、器に合わせて自身を相対化することができる。巧みに政治である。このことを一般化といい、コ ンセンサスが成立することだといえば、言い過ぎだろうか?
確かに社会性としては言い過ぎだろうが、表現には自身に対しても、また対他者にでも必ずこのような隠れた政治性がある。これを仮説と呼び、あるいは仮想線を引く、あるいはまた単純に計算する、といえば言葉はやわらぐだろうか。さらに、自身の保 守性とのせめぎ合い、アイデンティティへの疑義の排除とでもいえば、視点を変えたいい方になるだろうか。ともあれうまくいけば、こうしたプロセスの後「すすめ」は成就する。
平たくいえば「すすめ」の前にまず立ちはだかるのは、興味の範疇である。しかし「すすめ」の出自は一般化にある。あらかじめ関係は絶たれている。「すすめ」が「すすめ」であろうとする限り「すすめ」の作業は、興味という個別性を一般化するだけ である。
やはり、この二段階を踏む策術がキナ臭いのである。だがこんなことを目的意識的にやっている訳ではないので、このキナ臭さを包むのが、もう一つのさらなる政治性である。
演技とは、とり分け演出とは一つとして、この策術のことをいう。ほとんど演出家とは腹黒く、いやなやつだといっているようなものだが、演出作業に携わる端くれとして、演技とはこれらの政治性から最も遠いとこにあるのだということを綴り、演出性 の少しばかりの正当化を試みておきたい。

さて役者とは、空を飛ぶ人種のことをいう。空を飛ぶのは、おだてに乗ったブタだけではない。おだてに乗らない役者も人前で、人力で空を飛ぶのだ。だから稽古場の立ち稽古で、空を飛んでいない俳優に向かって「とにかく騙されたと想って飛んでくれ 」というわけである。もうほとんど与太話であると、想われるかもしれないが、役者たらんとすることは、いかに自身を知るかに関わることで、それは二十年の人生、あるいは三十年の生活をひょいと横に置くことに等しい。自身を問い直すことに等しい。 そのような過酷な、自己を措定してする対象化の作業ができる人種が、たかだか空を飛ぶことが、できないわけがないのである。
このような語り口は、演技論はほとんどロジックでないといえそうだが、それは違う。例えば唐突ではあるが、次のようなレベルで概念化し、査証したとしたとしても、あなたは論難だとかたずけることはできるが、演技とはそれを行為することなのだ、 と静かにいうだけなのだ。だから例えば大げさと思われるかもしれないが、人類史などというものがあるとして、かりにわたしがそれを想定するとして、それは一つとして、人類史とは人類愛なるものを証明せんとする時間のことだ、ということができると しよう。そうして、そのため人類諸氏は、これまで人権を価値としてちらつかせ続けているが、一方で殺戮を手放したことはない。人類愛なるものが何故至上命題なのかなどと問う気は更々ないが、ただ前記した役者たらんとする「ひょいと横に置くこと」 を数千年かけてもなしえない人類諸氏、ということだろう。人類諸氏にしてみれば、きわめて過酷な作業であることになる。いってしまえば、その歴史は滅茶苦茶であるのだが、それでも人類は、百年前に空を飛んでしまったのであった。
もうおわかりのように「ひょいと横に置くこと」以外に役者たることができない以上、役者たらんとする俳優が、軽やかに人類諸氏を差し置いて空を飛べるのは、論理や論証を越えて、自明の理であるほかないのである。
ほとんど説得力がないだろうか。それでは次のようにいうこともできる。
鳥は空を飛ぶのではなく、風に乗るのである。飛行機が空を飛ばなかったら、それは事件である。佐々木小次郎が修練の後、ツバメ返しを完成させたとき、彼はツバメにもまして空を飛び風を斬ったのである。舞台の上で俳優がロープにぶら下がり振り子 運動をするとき、ロープを消せば、俳優は空を飛んだのである。金のかかったフライングマシンがあるから、毎夏恒例のピターパンは、劇場を訪れる子供たちの目の前で空を飛ぶのではない。
いくらでも事例を上げられるだろう。
だがお断りしておきたい。それは、観客席のあなたがそれを判断し、判断しないということである、などということではない。そんなしたり顔をすれば、ことが済むなどということではないのである。
かくいうわたしは人類にあって末席のそのまた末席を汚す者であるので、さらに与太話と思われないために、こうい「すすめ」ばどうだろうか。「とにかく騙されたと想って笑ってくれ」あるいは「とにかく騙されたと想って泣いてくれ」と。

さてここでの問題は、「いいからやってみたら」ということで、取りあえずいいから「とにかく騙されたと想って笑ってくれ」と「すすめ」ても、それはおかしくもないのに笑えない、ということであるが、真意はこうだ。ささやかなわたしの身体観を披瀝すれば、笑うとは感情と呼吸と 筋肉運動から成り立っていると大別でき、帰納できる。これらは三者三様に絡んでいるのだろうが、呼吸と筋肉運動を訓練することによって、笑いは可能か。そのときおかしいという感情はいかに変容されてあるのか。またそのようにしてあり得る「笑い」は、関係を元のままに受け入れるのか。説明のためとってつけたような仮説になったが、ようは、人はおかしいから笑うのであれば、笑うからおかしいという逆説は成り立つのか?
わたしたちは本番という舞台に向かって稽古を重ねているのであり、笑いのプロセスの逆説が成り立つのか成り立たないのかを、実証することを目的としていない。ここでの例にならえば、取りあえず笑う。おかしくないけど笑うのではなく、まず笑うの である。このことによって、自身と関係はどのように変容されるのか。場が違う標榜を見せるなら、それはなぜか?その新たなる関係は、可能性に向かってどのように紡ぐことができるのか。
ここでの前提は、すべてが必然的、論理的かつ合理的プロセスや、結果としてあるのではない、という立場に立つと決意するということだろう。そのまなざしで身体行為と演劇営為を目指すというこである。だがしかし決意し、たくらめばたくらむほど、 ここでは綴り切れぬが、わたしたちがいかに生活の中で積み重ねてきた興味や価値観や、論理から自由になることが難しいかを思い知らされる。この意味でいえば、まずはこれらのものとの距離をどう測定できるかが稽古ということもできる。例えば、わた したちは頭が痛いと、手の平を額に持っていき「頭が痛い、熱がある」というのである。この動作はわたしたちが文化として受け継いできた、学習の結果だろうか。それとも患部に手をかざすのは、自己治癒という本能の枠内にある動作なのだろうか。正確 なことはいえないが、ただ万が一間違っても、手の甲を腹部に当て「頭が痛い、熱がある」ということはない。これが「すすめ」にあがなってある、身体の権力性である。
結論めいていえば、笑うからおかしいということを生きることが演技なのである。文脈からいいけば「すすめ」を無化する、ということである。

「サーバ構築のすすめ」と銘打ちながら、ここまでお読みいただいたあなたは、露ほども「すすめ」ていないので訝るかと思われるが、例えば『ハリーポッタと賢者の石』よかったから映画観にいったら、とすすめられれば気は楽なのだが、ここの「サー バ構築のすすめ」は、そうはいかないだろう。たぶん、わたしも含めわたしたちは生活の中で、映画館で過ごす楽しいひとときを思い描くことはできているだろうが、「サーバ構築のすすめ」の場合、たぶんわたしたちの日常生活の中では共有する何ものも ないと思われる。二三年前の通信料金のコスト高ではどうしようもなかったが、最近は安くなったので個人でも云々……でもない。
こうなれば「サーバ構築のすすめ」など一行で片づける事ができよう。
常時接続回線を契約する、グローバルIPアドレスとドメインを取得する、OSにUNIXなりLinuxをインストールする。
これですべてである。サービスが開始できるかできないかはあなたの努力次第である。経験からいっても、ネットワークやオープンソースの開発環境に興味があったのでサーバ構築が可能となったのではない。単純である。繋がらないものを繋がるように する、この積み重ね以外になにもない。これがわたしのいう「サーバ構築のすすめ」の演技論に他ならない。(つづく 2002.05.16)

すでにもう、ネタはすべて割れたとおもう。わたしにとっては「サーバ構築のすすめ」は「とにかく騙されたと想ってやってくれ」に全く十全に重なる。だから「サーバ構築」の部分は変数である。何にでも変容することになる。また、「すすめ」を”情 報”という言葉に置き換えてもらえば、この拙文はわたしがする「物語論」としてある。
わたしにとって「サーバ構築のすすめ」を、また「●●●のすすめ」を一般論として綴る事の意味はない。まずは演技論としてのみ位置づければ事足りる。しかし、ここまでお読みいただき、「とにかく騙されたと想ってやってくれ」の構造が、演技論と して明快に解き明かされているのかどうかに関しては、少々自信がない。
そこで以下のように補完することで、この拙文を閉じることにしよう。

冒頭にもどることになるが、どうやら、すべての俳優が頭をうち揃えて役者たらんとするようでもないのである。器用、不器用をもう一度持ち出すなら、不器用な俳優がよりよく役者たらんとするようなのである。たとえば「とにかく騙されたと想ってや ってくれ」などという要請は、いわずもがな「こんがらがって」いる。そこで要請を受け入れるとは「この非論理性」を受け入れるということではなく、「この非論理性」を一般性に変容し、常識的な論理性に置換するということを、意味している。さて、 これをしないというのが、個的な表現衝動にこだわるということであった。残念ながら、「この非論理性」を一般性に変容し、常識的な論理性に置換してしまっては、表現上における自殺行為にほかならない。個的な表現衝動を切り捨てては、なにも始まら ないのである。
すべてを納得する必要はない。要請の丸飲みが必要である。言葉を換えれば、要請の無化である。分からないことは分からないとして始めるしかないのである。何故わたしはわたしの個的な表現衝動にこだわるのか。そのようなわたしとは何か。わたしは なぜそのように現象するのか?
ほとんど哲学である。少々、ネタ振りをしすぎて、ここにたどり着いたが、例えばフッサールの現象学である、といいたいが、フッサールの現象学の書物である。あるいはフッサールの現象学についての書物である。ここではほとんどおかしな事が起こっ ている。

闇 黒光


演技としての『寝ながら学べる構造主義』 (2002.07.26)

文責・闇 黒光

ここ最近、本屋に足をはこぶと、そくさくとパソコン書籍売場のまえに立つ。以前ほど激しくなくなったのであるが、その習性からまだ逃れられていない。そんななかフト手に取ったのが文春新書の六月の新刊である、この『寝ながら学べる構造主義』(内田樹著)であった。書名が『寝ながら読める構造主義』でないのが気になったが、ゴロンと横になり読めるのならこれ幸いと購入した。
ところが横になり、寝ながら読めないのである。おもしろいものだから正座になり、読みふけったのであった。個人的な感慨であるが、十年前ではこのように素人のわたしにも分かりやすく構造主義からポスト構造主義の流れを解説することは、難しかっただろうな、などと読後感。
さて、あえてここで『寝ながら学べる構造主義』をもちだすのは、演技論として読んだ『寝ながら学べる構造主義』を少々内容に触れながらまとめてみたいと思いたったからであった。わたしの視点を差し込めば、台詞論、身体論、演技論が咲き乱れているのであって、いかほどか違う眼差しで「演技について」おもしろい話が書けるのではないかというわけ?任△襦N磴砲茲辰謄▲Ε肇薀ぅ鵑老茲泙辰討い覆ぁL郎?靴覆?蕕箸いΔ海箸砲覆襦?(2002.07.26)

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『 $i=drama(“ 大阪物語 ”); 』 企画書草稿 (2002.09.28)



1. [ 項目 ]

  • 企画名
  •   未知座小劇場第37回興業 打上花火個展
  • タイトル
  •   『 $i=drama(“ 大阪物語 ”); 』
  • 公演日
  •   2003年4月(1,2,3,4週の金、土) 於・未知座小劇場
  • テント公演日
  •   2003年5月 (テント公演)<仮り>
  • 開演
  •   午後7時
  • 入場料
  •   前売り、当日とも 2000円
  • 出演
  •   打上花火
  • 台本・演出
  •   闇黒光
  • 主催
  •   未知座小劇場
  • 企画・制作
  •   未知座小劇場、大阪演劇情報センター、ONS
  • 後援
  •   大阪演劇情報センター、ONS

    2.[ 経過 ]

    ここに提出する企画書は次の経過のもとに作成することにしました。
    未知座小劇場はこのほど、演劇祭催しへの参加招請をうけました。これに対し未知座小劇場は、8月中旬、招請元世話人会の主催する会議に出席し説明を受け、意見交換をおこないました。
    この会議とその内容をもとにこの企画書の内容は作成されました。
    まず、未知座小劇場は世話人会の主催する会議とその内容を次のように整理し、位置づけました。
    上記会議は、筆者の独断的な集約となりますが、概略以下のようにまとめました。

      1.「ラフレシア」と名付けられたテントを使っての公演。
      2.企画意図と方針はない。
      3.ポイントは各自の参集する思いを結集することのロマン

    わたしは、これらの想いの前では、ただ立ちとどまり、佇むことしかできませんが、ことが招請である以上黙視できず、この企画書を起こすこととしました。わたしたち未知座小劇場は表現に携わるものとして、招請という「言葉」をそのようにとらえています。
    さてこうして招請に対して、このように企画書を世話人会に提出しようとしています。企画書を提出することの違和感はあるでしょうが、ようは、未知座小劇場がその力量などにより、世話人会の想いや、また基本方針を計れなかった以上、わたしたちの考えを提出し、判断を仰ぐということで、現実的な対話や具体性を導き出したいということになります。まずは相対性の枠組みを抜け出せないということにもなりますが、とりあえず転がる ことはできるとします。
    以上が、この企画書を提出する意味と意図です。
    さて、あらかじめ次の「企画意図」を綴る前にお断りしておきたいのは、わたしたちの立場は招請を受けた側という位置を抜け出ないだろう、ということです。つまり、積極的な意味で、主体として演劇祭を仮想することに未だに意味を見いだし得ないでいる。なぜかは次の「企画意図」に譲りますが、そのような立場からの可能性と展望を夢想するしかできない。つまりこの企画書を綴る筆者の位置は、当たり前だが世話人会の立場ににじり 寄ることをせず、それをあえて囲い込み、ありえる可能性を、わたしの位置から診ることにこだわります。そのように論をすすめます。
    この位置を黙許願い、かつお読みいただければ幸いです。

    3.「企画意図」

    ここでいう企画意図は、未知座小劇場が演劇祭に参加することを模索するための企画意図となります。わたしたちの公演の企画意図は後述します。
    一般論から入りたい。
    公式めいて恐縮しますが、わたしはあるプランニングが立ち上がろうとするとき、マニフェストや基本方針がどのように政治的に語られるかが説得力だ、と思う者の一人です。この説得力が論理を導く。それは思い込みの強固さであったり、語り口という文体であったりする、と考えます。

    すべてが論理で始まるとなど毛頭思っていないのですが、さて「いかにしてテントによる演劇祭は可能か?」
    可能でないということは容易い。わたしの立場からすれば、これは大変容易なことです。
    それはいってしまえば、テントとは単なる貸し小屋でないのだから……
    「テントとは単なる貸し小屋でないのだから」と決めつける語り口は、お読みいただくみなさんとは何ら概念共有がないのでやはりまずい。で、つまり、無前提に思いをこめることのできる状況があり、身体として構築することが可能性としてあることに、まずその意味はあるということになるでしょうか。そのテントという器は、 わたしの意志として仮想しうるということになります。
    すべてを面倒みうるということであり、表現にこだわるわたし自身のこだわりをわたし自身の責任性として処理しうるということで、わたしはわたしであることができるということがいえます。それは表現の場の私有化であり、私権化でしょうが、ここではそれをテントと呼ぶことでいかがでしょうか。そうすることで、いってしまえば、テントとは単なる貸し小屋でないのだから、よりわたしにちかづき、ついに解き放たれようとする。つま りわたしの可能性としてある。言葉をかえればわたしは希望を抱いて普遍に添い寝できる。
    これをわたしたちは物語と呼ぶのですが、それはまだいい。さらに、幻想としてのテントという言葉も想起しないで頂きたい。この段階では、まだテントは肯定されるしかありません。
    すると、役者たらんとする身体は、テントを演技する身体の皮膜ともとらえうる。
    ここではまだ、能役者にとっての三間四方の能舞台に近い、といえます。
    つまりテントを演技レベルで語れば、わたしの演技は一般性としてありえないということと重なります。この場での、この磁場での、未知座小劇場の呼ぶ「力場」での、一つの開花のありざまなのだ、ということになります。
    このほか、多くの語り口は可能でしょうが、つまり、やはりついにいずれのテントも手あかにまみれているということになります。無機質ではない。個別的であり、集団的であり、方法的である。歴史的でさえある。それをわたしは個別身体的であると呼びます。
    ラフレシアというテントもまた、そのような身体性に裏打ちされた、仮設なのだと思っています。誤解を恐れずいえば演技論そのものだといっていいはずです。物理的な時間がそこに蓄積されて、ラフレシアというテントは今そこにあった、そして今日ある。少なくともわたしたち未知座小劇場にとって「ラフレシア」は一般論ではありえません。
    小屋はそうではないのか?
    同じだと思います。置換し得ぬ一回性として、そうある。だが、個別的ではないでしょう。
    本質論になるしかありませんが、未知座小劇場がラフレシアを立てることの意味は、あらゆる逆説を行使したとしてもないのです。未知座小劇場は未知座小劇場のテントを立てることこそ意味があるのですが、だが、これはこの企画書を用意するわたしが決め込んだ禁じ手であるとしました。禁じ手であるがゆえ、すでに命題になっています。
    遠回しにいうのはやめ、違う語り口をしたいと思います。
    無前提に集うことに意味はあるのか?もちろん無前提ということは大きな価値です。ですが、ここでのポイントは集うこと。
    集わないのは、違うからであり、方法論が違うからであり、演技論が違うからであり、表現論が違うからだというしかありません。論理を同じく何かができないから、個別であり、多くの劇団があり、様々な舞台があり、その差異化は持続しえていると考えます。やはり一つの舞台への批評性はもう一つの舞台によるしかないのでしょう。舞台とはきっと方法的であるしかないということでしょうか。その作業を一つのテントでしなければなら ない前提はたぶん、分かり切ったことですがどこにもないはずです。
    しかし、だから選択するということは行為の方法化を意味するはずです。

    さらにさて、表現という価値を機軸に集うことは可能か?表現の可能性の幅は新たに切り開かれるか?また、相対的によりよい観客になることができれば、ことは済むのだろうか?
    今朝ほどテレビをみていましたら、国際空港で俳優たちがイタリアの映画祭に出かける風景が映し出されていました。映画祭……。この映画祭自体が、企む側には一つに表現なのか?映画という表現の価値を切り取る。それを評価し権威づける。それが映画祭という表現?そして商品。
    さて、「ラフレシア」と名付けられたテントを使っての公演は、選んで、選ばれて集まるわけではない、ということでした。
    それでも、テントによる演劇祭は可能か?
    積極的な戦略として何もないとうそぶくことは、戦術たりうるか?もちろんわたしにとってうそぶくことは無前提に価値です。だからこのように自問することができます。いま状況の中で、丸まま状況であることは表現たりうるか。究極、何もしないことは、いま過激でありラジカルか。
    ここまできて、命題の導くところ、わたしは上記で仮設した思惑や考えを覆したいと思います。それが、この企画書を書き、提出する大きな一つの意味でした。
    上記の論をまとめると、ロマン・ロランの『民衆劇論』の中の一説に、やはりたどり着きます。わたしの記憶が正しければ、
     「広場に行き、花で飾った一本の杭を立てよう。すると民衆が集まり祭りがはじまる。それが劇……」
    脚色しすぎかもしれません。場所論としては十分だろうと思います。
    もうほとんど自身のこだわりになっていますが、これらをすべて次のように覆すのだ、というのがわたしの位置であり、未知座小劇場が獲得した物語論の地平です。
    さて、ここでわたしは、画家カンジンスキーの「コンポジション7」を持ち出すことで、速やかにこれらを乗り切りたいと思います。「コンポジション7」は抽象絵画と呼ばれていますが、門外漢のわたしはなにもいうことはないのですが、ただこの「コンポジション7」のそれぞれのプロットが三年あまりの歳月によって論理化され、1911年、三日間で書き上げられたということは知っている者です。「コンポジション」は11まで描か れました。
    いまわたしはこのように問おうとしています。わたしは、そして未知座小劇場は「コンポジション7」という世界を構築するための、一つのプロットたりうるか。
    飛躍させていただきますが、情報を物語化するためのプロットたりうるか。
    こうして未知座小劇場が夢想する、ありうるならある演劇祭の名称は「コンポジション12」となります。


     

    4.[ テントはいかにして可能か ]

    わたしたちのテントの位置づけです。
    世話人会の方々の唯一の決定事項は演劇祭をテントでやる、ということでした。
    さて……
    歴史的な語り口になりますが、テントとは表現に先立って場の問題であったと思っています。翻って表現を制約し、制約があるからこそ、テントは表現の地平で、表現そのものとして語られることになりました。このように総括めくと、異論があまた噴出するのを承知で続けます。
    テントが表現を装うことができた、ということにもなります。これはテントがそこにあり続けないということと、本質的に切り結びます。実体はあり続けない舞台なのですが。
    もうほとんど未知座小劇場の物語論を語っていいます。
    このままでは失礼なので、またわたしたちの物語論を開陳する余裕もないので概括します。
    表現がテントを背負うのではなく、テントが表現を装う。表現がテントを模索するのではなくテントが物語となる。すでにここで物語は情報ではありませんでした。ポスト構造主義的に綴れば、あらかじめ物語が情報でなかったことが告げられ、白日のもとにさらされたけだ、ということになるでしょうか。
    飛躍になりますが一般化します。
    物が方法的にアプローチされ道具となる。やがて道具は文化として自立する。そして表現にとって文化とは、ただ捨て去る価値しかないというのはいい過ぎでしょうか。新たなる発想と、わたしたちが現代的に問われている演劇的課題に耐えうる新たなる表現の幅を獲得するために。これが未知座小劇場の立場であり、演技論の鳥羽口です。
    ここではテントの可能性を模索しなくてはならなかったのですが、ほとんど絶望的です。絶望的ではあるが、それを突き詰めてみることは可能です。すると必ず破綻する。破綻するから論であり、破綻の中に可能性がある、が……

    「テントはいかにして可能か」をまず素直に、つまり「テントに可能性はあるか」と問うことはできるでしょうか?この問いに寄り添うのは「小屋に可能性はあるか」である、となるでしょうか。矮小化になり「小屋に可能性はあるか」などだれも問わないのでしょうか。あるいは問いが屹立しないとこに演劇状況と小屋の位置があるといってしまえばそれまででしょうか。
    ではなぜ「テントに可能性はあるか」などと気恥ずかしい問いが残骸として、あるのか。少なくともわたしの周りにはあるということにします。
    独断と偏見で言い切り文意を転がしますが「テントは小屋であり、劇場である」だけです。独断と偏見でありながら、一般論としても異論はないとおもわれます。それでもなおかつ「テントに可能性はあるか」はあり、「小屋に可能性はあるか」はない。
    これはほとんど、幻想(=物語)としてかたづけ「表現の導くとこいずこなりともおこうではないか」と与太をとばせば事は済みそうですが、捨て去るにはそうもいきません。
    一つだけ罠があります。小屋とテントをイクオールしながら、相対化しています。すでにテントの不遜が潜んでいます。これが物語の本質です。
    残念ながら、わたしはどのように糊塗しようと、今、テントの可能性を語ることができません。つまり物語の可能性を語ることができない。


    5.[ 『 $i=drama(“大阪物語 ”); 』公演企画意図  ]

    可能性を語るために、可能性を語らないでいいという逆説めいた方法を採用しました。
    これは苦肉の策であるばかりでなく、素人がするプログラム言語めいた語り口になることをお許しください。
    $i=drama(“ 大阪物語 “);文を内部文章では、以下のように自己解説しました。

    『次回公演上演台本のタイトルである。少々きな臭いがマジである。思いは、大阪物語を引数(ひきすう)に、関数dramaを呼び出し、変数$iに代入する。こうなると思いこみ以外のなにものでもない。なぜなら、いまわたしは関数drama( )を説明できない。抽象的にいえば、drama()は、これまで相対化しようと試みてきた、物語論である。これが関数であるということは、まずはブラックボックスであると前提するということになる。戻り値をすぐさま変数$iに代入することで説明、あるいは解析する必要がない、理解しないでいいということだ。
    引数である「大阪物語」は当然、小津安二郎の「東京物語」を想定し、射程する。映画に関しては門外漢のわたしだが、小津安二郎の「東京物語」は優れて物語であるか、あるいは最も物語らしからぬ物語であるかは、ベッケットの「ゴドーを待ちながら」のそれに通じる。これが引数である。二者択一を迫る必要はない。なぜなら、関数が結果を返すからだ。そもそもいずれにしろ物語なのだ。さらにこの場合、関数drama( )では物語はイレコである。
    これらがどのような実体であるか、内容であるか、だれも分からないのだ。それが変数$iである。
    こうして$i=drama(“ 大阪物語 ”);は一つの式であることができる。
    「情報とは物語のことである。物語の最高形態は天皇制である」のマニフェストを逆にたどりながら、情報の前で、この式を紡いでみることはできた。これがこの一年のわたしである。
    さて、これは新たなる発想たりうるか?あるいはドラマツルギーを、わずかでも転がすことができるか?さらにまた、文体の変容は可能か?それはまず、$i=drama(“大阪物語”);に続く論理式や条件式で、原稿用紙の升目を一字一字埋めるように、tureとfalseを渡り歩くしかないのである。』

    大見得をきるなら、ここで綴ってきたすべてを変数$Iに代入しようというわけです。物語相対化の亜流になれば幸いであるが、ごまかしといえばいえなくありません。ただいえることは、すべてのこたえは舞台がだす、ということだけになります。
    未知座小劇場がささやかにおこなう企画意図として……

    (文責・闇 黒光)





    演劇祭参加辞退書 ラフレシア演劇祭 世話人会 様へ


    ラフレシア演劇祭 世話人会 様へ

    未知座小劇場では、前回の会議でのみなさんの意見を持ち帰り考える、ということをお願いしておりました。
    わたしたちが提出した「企画書」へ対する、考えや意見などを検討しました結果、以下のように決まりましたので報告します。

    1. 演劇祭への参加を辞退します。
    2. これは未知座小劇場の力量のなさに起因するものであり、ひいては会議に出席した闇黒光の論理化作業を行う力量の問題であり、展望を模索する位置付けの脆弱性にあります。これが問題のすべてです。
    3. 表現において論理以外に依拠しない未知座小劇場は、今後もまたそうでありますが、この事態を重く受けとめるとともに、自らの舞台の表現の問題として位置付け、結果を真摯に、観客の前にかえしていきたいと思います。
    4. 言葉足らずですが、以上を報告します。
    5. なお、このような書面でなく、面接での開陳要請には準備がありますので、申し添えておきたいと思います。


    2002.11.03  未知座小劇場  闇 黒光 から



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