更新日付:2017年 09月 10日(Sun) 11:20:59 AM home/top page server library/page yami-top/page 闇黒光演劇論集top 闇黒光top |
●所謂『大日本演劇大系』について少々・草稿 ― 企画書にかえて ―●
この冊子の上演台本三本は、明確な意図によって書き継がれ、連作されたものではない。それぞれの状況のなかで上梓したものである。執筆時期も異なる。わたしの記憶が正しければ、各々の初演は、多分『明月記』が一九八五年以降だったし、つづいて『独戯』は1990年前後の筈だ。『大阪物語』は昨年である。不確かな部分は上演記録を参照いただくしかない。『明月記』は、大阪・枚方市で行われたイベントから招請をうけて実現した。本番まで一月あまりしかなく、あわただしく初日を迎えた、と思う。『独戯』は、外部から執筆と演出の依頼があって公演までこぎつけた。多分客の入りが悪かったのだろう、原稿料等を辞退したわけではないが、うやむやの中でもらえなかったのであった。現在も受け取っていない。このように記憶の底を掘り起こしながら綴りはじめると、少しずつ何かが頭を擡げてきそうだが、それらのことどもは別の機会に譲ろう。『明月記』と『独戯』はこれまで数回の再演を行ってきた。これにくらべ、未知座小劇場で上演した、他の舞台の再演は、その多くがテント公演のものであったせいもあるが、再演はない。再演よりも新作をというのが当時の流れであった。端的にいえば、テント公演の場合、その全体の作業量が新作であろうと旧作であろうとなんらかわりがない、ということがあった。さらにそこに、未知座小劇場のテント公演は、一ヵ所でなく数ヵ所でやるという、移行の概念がついて回っていたので、その全体性から強いられる莫大な時間量の中では、吐き捨てたものより、新たなる可能性を求めて、やはり新作を抱えたい、というのがあったのである。再演のイメージを想起することすらありえなかった、というのが実情であった。『明月記』と『独戯』は小屋を想定した台本であったために、その再演の可能性がよりあったということもあるが、事情は少々違う。再演は意図的であった。やはり「大日本演劇大系」という冠である。「大日本演劇大系」というものを想起したのは『明月記』の作業と重なる。ふり返ってみると、この時期は、テント公演の現状と可能性が捉え返されようとし、新たなる可能性が模索されていた。詳細は『未知座小劇場からの報告』の「書かなければならなかった事」に譲るが、要は、未知座小劇場の新たなる展開がさらなるイメージで切り開けなかったのである。言葉をかえれば、テント公演がスケジュール化し、そのことに力量が傾注される。持続しこなされることが問題となる。わたしの言葉では「物語としてのテント」となる。状況的には構造主義からポスト構造主義のながれと重なる。これらのことがあいまって、舞台は「メタ演劇」の様相を呈した。それは意図されたことだが、劇中の台詞としては「もう返るべきロマンはない」となった。演技論的に綴れば、行為することのリアリティ、作業することの納得さ加減をどのように集団化しうるのかということであった。何が目指されており、どのように行為されねばならないのかということを語る言葉が獲得されねばならなかった。それが一つのドクサ(イデオロギー)であってもいいのだが、真摯な行為に耐えうるドクサでなければならなかったのである。これらの問題をとらえ返すために、現状の再検証が目指された。具体的な作業として、演劇といわれるものを解体して、一から組み立ててみようというわけである。もちろん演劇そのものを疑うためにである。抽象的な作業ではなく、最もリアリティのない物語を行くてに仮設してみる。このようにして、関係、身体、言語等の検証が「大日本演劇大系」のそれぞれの、一つの章として企まれた。その途上である現在、テント公演となった。この作業を「大日本演劇大系」を絡めて語るには別稿がいる。ただ、この地点で言えることは、この冊子の上演台本三本で、これまでの作業をあらかた全体として指し示すことができるということである。この意味で冊子の三本であり、「大日本演劇大系」三本立て興業である。(06.02.07 記)
●「明月記・独戯─喰いあわせ公演・大日本演劇大系」版後記●『「明月記」と「番外・独戯」について』大日本演劇大系は、以降第一章・二章と続いていていくものです。そのプランはいってしまえば「演劇が演劇的に死滅する瞬間」まで摸索してみようとするものです。これは「自然が自然的に消滅」することがないように、また「演劇が演劇的に死滅する瞬間」もないと考えます。しかし「演劇が演劇的に死滅する瞬間」をかりに「観客が観客に向き会う瞬間」という極めて共産主義的な瞬間を幻視することで、演劇の本質を明らかにしてみようという試みです。「自同律の不快」があるのであれば、自同律の愉快もまたあるのであろうと考えてみるわけです。きっと「わたしは」とつぶやき「わたしである」と述語する時間は、人間に莫大な想像力と、宇宙史に匹敵する時間を押し付けるのですから、もちろんそのとき、人間のことを人間と呼ぶのかどうかは定かではありませんが、この大日本演劇大系の第一章・二章……終章は十年ないし二十年の幅で摸索せざるを得ないであろうことは、十分に予測しているものです。さて『序の章』は、最低のところから始めよう。これ以上退けば演劇でなくなるところから始めよう、としたものでした。かのピーター・ブルックは、一人の人と、それを観るものがいればそれは演劇であるとしたのですが、残念ながら、これは明らかなまちがいです。二人の人と、それを観るものがいれば、それは演劇である。この視点が、大日本演劇大系の出発です。演技論の違いといって済まされない問題が孕まれているのですが、とりあえずここでは、関係のせり上がる瞬間に、演劇は成立し、演技は行使されたのであると、それは芝居の現場であったのだ、としたいわけです。多くを語らずさきにいきます。一人演劇は、百歩譲ってあるとしていい。だが、一人芝居はない。これは、言葉の問題ではない。一人演劇でもなく一人芝居でもないものとして独戯を設定しました。したがって『独戯』は『明月記』の反措定です。相互が存在を問うものとしてあります。この摸索をとおして第一章が発見されるものと考えます。以上が、大日本演劇大系の三年間といえます。八尾公演でなんらかの結論がでるものと期待しているところです。さて、この大日本演劇大系と、テントの関係は大日本演劇大系の大きな課題です。今後大日本演劇大系のなかで展開していければさいわいです。(文責・河野明 1990.09 記)
●初版後記●『 物語論あら書き』この『大日本演劇大系・番外』は前作『大日本演劇大系 序の章・明月記』との関係において語るしかない、というところにわたしはある。『番外』との関係で『明月記』を概略すれば、それは一人の女を二人の女優が舞台で力場するということであった。演技の本質を関係性の問題以外にはないとして展開したのであった。演技という交通の可能性を関係論として閉じ込めてよしとしたのである。極論すれば、人のまえで何かを見せつける地平において、演技の成立は関係としてしか登場しないのである。一人で何事かを、見せつけることにおいては、演技はついに登場しないであろう。つまり観客は、ついに第三者であることをやめてはいない。なぜか。物語が死滅しているからにほかならない。生活から物語は駆逐されていると言い換えてもいい。この場の脈絡で綴れば、関係の可能性の展開は幾分かは物語への距離感の確定ということもできる。さて、物語りは常に、時の権力の用いる支配構造という権力関係をその中心ファクターとしてきたが、現代という様式においては、物語はロマンという様相を帯ないほどに物化しているといっていい。つまり、支配構造という権力関係が、かつての支配構造という権力関係の全体性を脱皮し、新たなる支配構造という権力関係を捏造することによって高次化した距離、その距離は逆説でもなく、関係をなしくずしにする無関係化という支配構造という権力関係の定着さほどに物語は物化しているのであろう。敵が見えないなどということではない。敵などどうでもいいのである。そのようにして錯乱を装っているのである。前後するが、この物化のほどに観客は第三者を装うのである。物語は今、自分探し、イメージ、構造、天皇制、奪われた時間、近未来とその姿を換えてきたものの、瀕死の宙ぶらりんなのである。幾多うまれてきた物語は、より多くその歴史を紐とけば、民衆が求めてきたといってもいい。物語を活性化してきたのは民衆の力であった。その力が、人前でなにかをやってみせるという行為を、第三者としてではなく支えてきた。このエネルキーが結実しようとする場が、芝居であった。このあたりの展開は「十五・物語論」に置換するとして、さて登場人物は一人なのである。ひとの前で何かをしてみせる必要十分条件を二人の俳優関係としたとき、この文の脈絡を踏まえて綴れば、それはすべてを相対化する物語の捏造であった。物語を生きて見せようということであった。二人の俳優の『明月記』にそっていえば、関係を生きてみせようということであった。さて、登場人物は一人なのである。多言を要しまい。そこにうごめくのは物語なのである。瀕死の、宙ぶらりんの……。あえていえば、この『独戯』は物語論として成立させようとした。老婆心ながら、瀕死の、宙ぶらりんの物語は、支配構造という権力関係を補完する上部構造としてのロマンという物語を、観客が拒否し、正しく物語の死に水をとろうとした結果であるとは位置付けてはいない。単純に綴れば、もろ刃の剣としてある物語が片刃になり、他の刃も、刃である必要がなくなったなにがなにかわからへん、といえばいいのだろうか。飛躍する気はまったくないが、それは天皇制の今日的状況と添い寝してきたのであった。ついに『独戯』ではこのような物語がのたうつのであるが、さて、役者たらんとする身体はいかに蘇生し、自己権力としての身体たるかは、やはり演技にかかわっているのである。やはり最後に「すべてを演技諭で突破せよ!」と。(1988.03 記)
この「書かなければならなかったこと」はきわめて個的なことになることを、あらかじめお断りしておきたい。そのようなものとして「書かなければならなかったこと」はある。いやむしろ、この「書かなければならなかったこと」を具体化するために、多くのことはあったといえるほどである。状況の中で、作為された行為が、生活のなかからの必然的なものであるかのように自身を標榜して、思考よりまず展開こそが求められるということは多々ある。それはまずそこに行為があるあことを、指し示そうとするからであるが、かといって、結果で何かが和解し、氷解するということはそんなにあるわけではない。むしろ、迷路こそ用意されている、というのが常だろう。いつも立ち止って考えるわけにもいかないからでなく、見えないのだ。このとき、なされることは「見えない」ことにこだわることしかできはしない。付け焼刃に借り物の思想性を孫引きしたところで、すぐにその鍍金ははげるのだ。だから、静かに自身の中に垂らした推力に合わせて、果て度ない井戸を掘るのがいい。井の中の蛙と手を繋ぐならまずは繋いでみることだ。やがてその蛙を、はるか下から見上げなければならないのであるから、まずはそれを楽しんでみることだ。孤独と寂寞のなかで、ゆるやかなリズムを刻むのである。三島由紀夫の自決、高橋和巳の自死、妙義山にいたる惨死から、これらの三方のベクトルからする、すくんでしまった地点に、無名の死を仮想し、そこから自身の中に垂らした推力に合わせてした、果て度ない下降の井戸のなかにまだいるが、たまにそんな一点から頭上を見上げたとしても、やはり満天の星空は見えるのである。それは一重に孤立することを意味する作業であったといえる。この拙文はそんな地点からする、まずはの経過報告である。