更新日付:2017年 09月 10日(Sun) 11:20:59 AM home/top page server library/page yami-top/page 闇黒光演劇論集top 闇黒光top |
【 注記 】
(注・1) 三木成夫といのちの世界 ・吉増 克實 (参照Webページ)
(注・2) 『論理哲学論考』(著・ウィトゲンシュタイン 刊・岩波書店)
(注・3) 帝国キネマ演芸株式会社
解釈学や言語学を援用するまでもなく、人は言語(パロール)によって思惟する。さらに思惟を重ね、思考する。それはこうあると仮設する<世界>に理念としてにじり寄ることになるだろう。このことはまた、わたしたちが筆記具で文字を綴ることによってそのリズムを肉感し、一抹のエネルギーらしきものを磁場として体感できることでわかる。こうして、文字を書くということも、そのことによって思考することに他ならない、ということができる。ではさて、演技という地平ではこのことを、どのようにいうことができるであろうか?
身体による行為の反復といえば、それはあまりにも原初的で原始的な想像力を行使する、ということに通じるが、やはりそこから始めるしかないということも疑いがないのである。ここでいう行為とは、まず記号としての指示性を持たない<事柄>であるから、一義的に意味に還元されない。つまりこの試行錯誤を、俳優は言語によって思惟するのではなく、まずは身体によって思惟する、ということができる。これを、人の属性を言語によって思惟するものであるとするなら、俳優の身体とは言語にほかならないことになる。暴言でもなく言いきれば、演技とは身体を言語化して思惟することであるといえる。さらにまた、俳優は身体を持つものだけのものではない。住みつく場としての舞台を持つ。つまり、舞台とは身体を言語化する場のことであるのだ。
未知座小劇場スタジオはこの俳優の属性を恒常的に確保することを目指そうと思う。それが未知座小劇場という小屋である。未知座小劇場スタジオとはこの小屋を舞台として、稽古場として私有化するシステムのことである。
残暑厳しきおりと思われます。皆様もやはり、ウダル暑さに根拠なく耐えておられるでしょうか。
驟雨や夕立を期待しましょう。
といいながらも、鰻の蒲焼いただくか、焼肉をつつきながら生ビールというのは、こよなく結構でしょう。生肝、生レバー、ユッケもさらに上品です。生センはもう歯にあいません。
昭和20年代、戦後まもなくの話です。大阪・鶴橋の焼肉屋さんでオヤジが開店前のネタ仕込みをしておりました。食糧難の折から、仕入れもままならず、赤犬の肉でも混ぜたいと秘かに思っていたオヤジですが、バレた時のことを考えるとふみきれない小心者。ふと残飯桶に目をなげると、下働きのお初さんが、切り分けて捨てた肉のなかからなにやらより分け、それを洗い場に持っていこうとしています。どうするのだと声をかけますと、マカナイに使うといいます。おもわず「もっとエエ肉あるやろ」といいそうになりましたが、そんなものはどこにもありません。
マカナイは大変おいしかった。生姜とニンニクをつけてサッと炙っただけ。ただそれだけでした。オヤジはお初さんに「どこの肉や」と聞いていました。
もうお分かりのように、翌日からその店では「ハツ」としてメニューにのぼりました。これがハツ肉のゆわれですが、人によっては語源は「heart」にあるともいいます。
ハツといえば鳥や豚の心臓の肉のことをいうのだと物の本にありますが、最近の焼肉屋ではハツでとおります。やはりお初さんの心使いですからニクからずハツは初だということでしょう。
さて、ハツは「ココロ」ともいいます。
問題はどうしてハツがココロなのか?
ココロが後から来たのは明らかでしょう。heartやお初に語源が求められるということは、一ひねりが必要だったことを意味します。このひねり具合が必要でなければ、はじめから心臓の肉は「ココロ」です。この直接性をためらうところに「heartやハツ」があるということです。したがって「heartやハツ」が一般性という認知度の具合によって、「ココロ」という直接性、想起される直接性は薄められ、その用語の位置と意味を一般性の中で情報効果をもったということになります。
ここでわたしが射程せざるをえないことはここには、心臓=心が、わたしたちの文化に仮説としてあったのだ、ということです。
三木成夫は心とは内臓である、といいます。誤解を導くいいかたですが、わたしはそのように三木成夫を読みますが、それはわたしにとっては五臓六腑のことだとしてみることができます。五臓--肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓の五つの内臓。六腑--大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱の六腑。
肝を潰すとは五臓の反応と思われます。腑に落ちるとかいう心の、あるいは気のありようは大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱の落ち着きさ加減なのでしょう。わたしの田舎の九州・大分では驚くことを「たまがる」といいます。これは、金玉の玉が上がることです。……女性の方はなんというか知りません。忘れてしまいました。三木成夫とは少々離れたことになるのでしょうが、たぶんそれはわたしたち日本人といわれるものの五感に刷り込まれているのでしょう。
こうなると、脳死臨調が1999年に示した脳死(脳波の停止、無呼吸、瞳孔開放等)は人の死ではなく、心は生きていることになる。心があるのだから人は、死んではいない。想像に難くないのは、三木成夫はこの脳死という人の死に対して異をとなえたであろう、ということです。もちろんわたしはこれを演劇的に解決しなければならないが、その道筋のすべてはレスピレーターに向かいます。
余談ではないがテレビで、閉じこもった横綱・朝青龍の部屋を訪問した精神科医という方のぶら下がりインタビューの「心の問題です。精神状態が安定していない。脳内でホルモンの分泌がうまくいかずバランスが崩れています(わたしが聞いた大要です)」が流れていた。素人ながら、ホルモンのバランスが執れず、精神的にまいっている。つまり情報処理能力が落ちている、という現状のようなのだが、それと心の問題がどう絡んでいるのか判然としない。むしろ渾然という趣である。心が病んでいるといっているのか、精神的におかしいといっているのか、それは順逆どうのこうのなのか?この方も素人なのか?脳科学からすれば心とは精神なのか?
心と精神……
旧日本帝国陸軍には樫の木で作られた精神注入棒というのがあったそうです。
パースペクティブとしてはこんなとこだろうか。つまり、俳優に向かって「気力で何とかするしかないだろう」などという非論理性を吐かざるを得ないそこは、どこだというのか?それはどのような意味で非論理的なのか。そのとき論理性という精神作業は、三木成夫のいうこころにどのように爪あとを立てているのか、いないのか。 ……ということは問うことができるだろう。
たとえば、俳優は舞台の登場人物になりきらねばならない、とかいう戯言を聞いたりします。能舞台のように亡霊、モノノケ、幽霊、化け物、生霊、鬼だったらどうするのだろうとか、たまさかなりきったとしてその後はどうするのか、女形はどうなるのか?などと思わず半鐘を入れたくなります。歴史的にみたとしても、この物言いは言葉のアヤなどという高尚なものではないし、また仏師が一つの木塊に、仏の心を彫るといういう話に似るものでもありません。少々しつこく付け焼刃で申し訳ないが、「アルプス交響曲」などで知られるリヒャルト・シュトラウスのその創作意欲がドイツ最高峰のツークシュピッツエ山頂を征服したのだ、などということとはまったく意を異にする。それは良くいえばリアリズム観に対する、日本の社会主義リアリズム演劇観からの論難なのでしょうが、そうその出自を理解したとしても、亜種としてのリアリズム演技観となるといただけません。
いくらなんでも、やはり紙数には限りがありますので、すべてをわたしに回収したとすれば、この「なりきらねばならない」は、ついには五臓六腑のリズムを自身に重ねる、それを根拠にする、ということになります。換言すれば、それは呼吸という身体のリズムの問題であり、すべからく事はこちら側にあります。先走りますが、それは演技とはと問うとき、それを精神性、論理性、思想性、身体性等の個々に分断しないということを意味します。
ここでようやく実存主義的な肉体という言葉を持ち出すことができるはずです。しかし、この肉体は下部構造だとする曲解を許容します。演技は下部構造に規定された弁証法的な上部構造に属する作業ではないのですから、当然、この肉体は身体という言葉に置き換えられることになったはずです。
わたしはこのことを哲学史的な言語論的展開になぞらえてきました。演技とは認識論の問題ではなく言語論の問題であると。
さてさて、混乱を避けるためにこで筆を置きますが、さしずめ前期ヴィトゲンシュタインに習えば、このあたりのことを”演技としての言語論”と名称したとして、それは 「7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない 」となるかもしれませんが、演劇的営為とは、どうしても「語りえぬものについてこそ、沈黙を破らねばならない」はずです。それが、わたしたちが揚言する”演技とは可能性を行為することである”からに他ならないからです。
最後に、誤解を恐れず、稽古場で用いられる言葉に置き換えてみたいと思います。
行き詰まり、煮詰まった稽古場で「緊張感がないよ」であったり、「集中力がないだろう」であったり、最後には神頼みのように「根性で何とかしろ」となる元凶は、方法論のなさと作業仮説の資質を個的作業に求めてしまうからでしょう。それでも、このあたりに踏みとどまり、歩一歩を進めるには、解剖学的に心を解き明かそうとした、その三木成夫の体系性に、三木成夫の呼吸のリズム論を逆手にとって、静かに向き合うしかないように思われます。
【 注記 】 老婆心ながら、なんといいましょうか、断るまでもないのでしょうが、本拙文に登場する「お初さん」は、ここだけのはなしとさせていただきます。
「劇団吉祥じゅん&女騎士(ワルキューレ)」の芝居を観たくて九州・大分に出かけた。片道ほぼ800kmの木戸までの、わたしにとっては旅といっていい道のりは、自宅のドアを開けるまえからすでにはじまっていた。
こちらにいればせいぜい、小一時間ほどの電車で出かけ、飲み屋でクダ巻いて帰るのがその道筋とオチだが、九州までとなるとそうはいかない。何せこれはやはり大いなる贅沢なのだ。往き復りで最低二日はかかる。観るということに気力が要求される。芝居を観に出かけるというのは、こうでなくてはならない。本番を屹立させるに耐えうる、こちら側の観客になるための相応の努力は、常に求められていると識るが、年にそう何回もあるものではない。あらかじめ、板の上に登る身体が役者であることがないように、観客もまた為るものだと……
吉祥さんの芝居は、昨年の福岡・博多公演に続いて二回目である。このようにわたしは「劇団吉祥じゅん&女騎士」の、いわゆるいい観客ではないのだが、それでもここでなんらかを綴ろうとしているのは、失礼しっぱなしで二言がないわけで、せめてということになろう。でもやはり、すでに語るに落ちる。
こうしてかろうじてできることは、舞台から差し出されたであろう、あるいは吉祥さんの「闇」を手がかりに、わたしのそれらしきものを整理してみることができるならそうしてみる、ということとなろうか?自身にグイとひきつけてみよう。
公演場所の「別府市コミュニティーセンター」は、驚いたことに大分県立別府青山高校の真前にあった。青山高校という響きには一言あるのだが、それは今回はおいておこう。また、今も女子高校であるかどうか定かでない。
同コミュニティーセンターは別名「芝居の湯」ということだった。別府市営のスーパー銭湯といえば一般性がでるだろうか。当然ながら銭湯がある。実は、JR別府駅前にある「高等温泉」の湯ぶねに、時間調整のためつかってきたのだった。「芝居の湯」でも十分時間はあったのだが、観劇前のもう一風呂という勇気はさすがにないのであった。
多目的ホールでの公演である。それは立派に櫓を構えた歌舞伎小屋である。どういう意味で多目的ホールなのか分からないのだが、舞台間口6?7間。昨年の博多のホールとはまったく違う。吉祥さんの息使いや視線が観えるのだ。舞台がみさだめんとする闇がわたしに口をあけるかどうか定かではないが、吉祥さんの呼吸のリズムに重ねるわたしのリズムを探ることが、許される「ここ」と「そこ」である。
世界は「葛飾北斎」によって定められる。絵師である。「ここ」を絵姿として映し写し取るものとして舞台に投げ出されている。多分、うつし取るものは絵姿という人魂ではないだろう。演劇的営為というものが相手にせざるをえない言霊なのだ。その言霊が百鬼を呼び、夜行を誘う。わたしがいうのも憚られるが、日本人が人魂を売っ払ったのはずいぶん昔のことだ、といってもだれも詰りはしないだろう。うつし取る人魂などはもうどこにもない。それでも、仏師は木塊に仏の魂を刻む。このうつし取ることと、刻み込むことの両極のゆれ幅の中に、吉祥さんたちが敷衍させざるをえなかった闇が横たわっているのだろう。
さてすると、ここにはハムレットが、運命に翻弄されるハムレットがいるということになる。このように我田引水的にみることが許されるなら、さしずめ百鬼とは魔女たちのことになる。ではこの『怪 ?北斎夢幻・外伝?』(再出から『怪』と略す)はハムレットににて悲劇か?そうではない。
マクベスが登場するのだ。百鬼の主・紅葉の名を借りて現れるのだ。ありていにいうことが許されるとして、この『怪』の主人公は紅葉が背負う闇である。すくなくともわたしにはそのようにある。だから、その止めどない奥深さへ思いをはせざるをえないのだ。ここで逆巻いているのはハムレットが奈落に叩き込まれるようにある悲劇的な闇ではない。むしろ背負うことになってしまわざるを得ない、マクベスのそれに近い。だが運命ではない。人としてのさだめににた匂いがする。
やはりこう綴ってくると、無防備ながら、わたしはここで冒険をするしかない。つまり、わたしはどこまで「思いをはせる」ことができるのか、と問わざるをえない。
例えば、柄谷行人の『マクベス論』は、マクベスのそのうめきを刺し貫きながら、あの「連合××」事件を呼び覚ましたと思うが、わたしたちはいま、きっとそんなところでたち止ることはできないだろう。16?17才の若者の手に握られた刃渡り十数センチの斧を、問われればいってしまわざるをえない直接的な起因が在ったとしても、そのようなどんな結われがあったとして、そこにどんな闇が口を開けているからか、どのように随意筋を操作することによって、上から下へ、重力よりも速く、その刃先を動かすことができるのか?
この問いは、何物も指し示しはしないだろう。問い自体が無効なのだ。その予感があれば、鈍い刃先の結果はない。むしろことは始まる前に総て終わっているのであり、残されたものは茫然自失の作業であったのかもしれない。だがそれでも、やはりきっと、そのとき、解剖学者であった三木成夫のいう「生命記憶」は、よどんだ空気の中でかすかに去来したはずなのだ。なぜなら、人は人を人魂を売り払うように拒否することはできるが、生体であることの生物学的行動を停めることができないからだ。そしてだれも明確に何かを呟くことはできはしない。いまもそんな鳥羽口に、いまさらのようにわたしたちは佇んでいる。人を装い、さらにお手上げを装って……
これらの事柄は本当に事件として、演劇的課題であり、思想的課題であるのだろうか?
演劇的課題とするには、まだまだ生ぬるすぎる。かりに「演技とは可能性を行為することである」といい切ったとしても、まだまだである。それは「逢う魔が時」に訪れる、あの、ことゆえなくある魔が刺す、排気と吸気の間の間というものには太刀打ちできない。わたしはこれを、舞台では間が差すというが、この慄然とする人智をこえた修羅場を行為したものには生ぬるすぎるのだ。
先へ進もう。いや、多分わたしたちは、すでにどこに導かれなければならないか知っている。百年前から知っているといっていい。それは百鬼の主・紅葉が背負う闇の正体である。もって回ったいい方をやめるなら、その闇はわたしたちが背負っている。だからこそ愕然とし、恐怖にすくむのだ。それをドストエフスキーは『悪霊』のなかで、自身を切り刻むようにしてニコライ・スタヴローギンに「告白」させた。百年前である。ここには一つとして、自らの気まぐれで少女を陵辱し、やがて自尊に耐え切れず納屋で首を吊る少女を、板の隙間から盗み見る、度し難いスタヴローギンという闇がある。これは「罪深さ」の闇であるに過ぎないのだろうか。そうであるのかもしれない。だが、視線をドストエフスキーのほうに移すと、スタヴローギンを生み出さざるをえなかった、その止めどない奥深さへ思いを馳せてしまうのだ。「神様を殺してしまった」ほどの話ではない。自己を根底から破壊しつくそうとするドストエフスキーの、極めて正当な攻撃的な悪意がある。つまりそれは「闇」そのものを破壊しつくそうとしているのではないのかと。
世の人に習って、書くということは行為であることによって自己救済だとしよう。『悪霊』もまたそのような属性を一つとして持つのであろうが、ドストエフスキーがスタヴローギンにさせる「告白」を『悪霊』の一節として書き起こしたとき、そこではある種の逆転が起きてしまうことに思いを馳せざるを得ない。自己救済とは文字通り己を救うことであり、告白によって自己浄化をもたらす。しかし、人間の尊厳を正邪を超えその幅を見定めようとすることによって、ドストエフスキーのそれは人間性そのものを破壊しつくす。簡潔にいえば、ドストエフスキーの救済とは破壊のことである。そのようにしてしか成就されない。つまり、ドストエフスキーの背負ってしまった正当な悪意である。
スタヴローギンの前には止めどない奥深さがある。それはまたマクベスにもあった。百鬼の主・紅葉が背負う闇と等質のものである。ここには退路はない、止めどない奥深い闇に向かって歩むことしか残されていない。
こうして危ない綱渡りをしているわたしの拙文も、ようやく演劇的課題に耐えうる一つとしての「悪意」を前にすることができたようだ。再び綴るが、わたしたちのテーゼである「演技とは可能性を行為することである」をここで持ち出し、演劇的営為の磁場に躍り出るには、この「悪意」を行為しなければならい、というのは演技論という論の必然である。必然であるが、すすめば大言壮語で、黙して語らずを選ぶしかないと思ってしまうのだが……
ままよ……
舞台の上では「悪意」は生きるものとしてある。文脈からすれば悪を生き、闇を喰らわねばならない。振り下ろされる斧の刃は「生命記憶」を大きく凌駕し、更なる悪意で振り下ろされねばならない。そうすることで闇の幅を拡げるのだ。つまり、こうでしかありえないことを逸脱しての行為こそ、それを演劇的営為と呼ぶことができ、可能性を行為することにつながる、と嘯くことができる。換言すれば、位置づけられない斧があるなら、斧を鉈にし、鎌に、ドスに、刀にすることを試みることになる。もうほとんど言語論なのだが、つまりソシュールに習えば「語の価値は体系内の対立関係からのみ生じ、語の思考対象はシニフィエとともに誕生するのであれば、コトバ以前の純粋概念も、ア・プリオリに分節された事物も存在しない」(丸山圭三郎)のである。絶対的根拠などない、すべては疑いうると読める。あるいは価値の組み換えが求められる、ともいえる。大言壮語の文意に添うなら、「可能性を行為する」とは闇の幅を拡げることである。闇が無限であるとするなら、カントールの「無限ホテル」よろしく、もう一つの「無限ホテル」をでっち上げることなのだ。つまり闇に濃度があるのなら、無限であろうこの闇とあの闇は見分けがつくということなのである。
斧が斧でしかないことが根源となっている。文化という枷をはめた状況のなかでそれは、ア・プリオリな純粋観念である。ノー天気にいってしまえば斧は鳩ではない。表現を担う側に問題がある。しかし、可能性を行為することによって、詩人の言葉のように斧の価値を奪うことは可能である。それは文化の幅の変容を意味する。「可能性を行為する演技とは」こうでしかないここを、そうでなくするというという意味で、演劇的営為である。もう一つの斧の物語が立ち上がることは可能である。このとき、板の上に登り役者たらんとする身体は、可能性を事実として行為する。それはカオスの不連続化の徒につく、にとどまるだけなのかもしれない。とはいえそれは、可能性を生きてみせるということである。
このようにしてわたしたちはポスト・モダンの口を塞ぐことはできているはずである。それを演劇と呼ぶなら、そう呼ぶことによってかろうじて演劇を許容しうるだろう。
ボツボツ、口幅ったい与太を飛ばすのをやめ、最後にもう少し『怪』に接近し、わたしたちの稽古場という具体性に閉じこもるのが頃合だろう。
上記の与太話などから遠く離れて、劇団吉祥じゅん&女騎士の『怪』はあった。
『怪』は説話を装っていた。説話とは「噂話や昔話などおもに口伝えで人々に広まった話をいう」と習い覚えているが、平安時代に編まれた説話集を想起させるものではない。かといって柳田國男の『遠野物語』のように生臭くない。頃合は世界定めによって江戸とされ、期を得て一回りすることによって錯覚される現実感が、わたしの思惑を奇妙にくすぐるのであった。もちろんフォークロアではない。むしろわたしは、能舞台に思いを馳せていた。そしてまた、わたしの拙い読書遍歴からすれば、あこがれてやまないものとして、上田秋成 → 泉鏡花 → 赤江獏という補助線を、強引に引いた上での近しい世界があるのを楽しんでもいた。
奇妙なことを一つだけいまさらながら思った。多分それは、わたしが演劇というものをついに信じているからだろう。その度合いとは、演劇など最も信じるに値しないもの、という地平で演劇を信じている、ということになる。ここでの一番の難問は、約束事としての暗転が、座敷童子のようにいうことを聞いてくれないことである。暗転とは何も存在しない、見えないということである。そういうことによってイメージを広げるという約束事といえばいいのであろうか。色々な位置づけがあるであろうが、舞台の側からすれば、この約束事はすべてを観客に預けねばならないということである。つまり、本質的に責任が取れないのである。暗転だけが異質であり、理不尽なのだ。もっとも信用のおけないもである。
『怪』の世界の暗転は、止めどない奥深い闇であるのだ。それを誰も疑うことはできない。